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派手な喧嘩は芝居にもなった!?気性の荒い火消したちは喧嘩が大好き?
前述したように火消しには気性の荒い者も多く、しかも、町火消は組ごとに異なる纏のもと結束していたので、自然、ほかの組や武家の火消したちと対立し、喧嘩に発展することもよくあり、火事場では手柄を争って「消口(けしくち)争い」と呼ばれる喧嘩もしょっちゅう起きたそう。
なかには火事そっちのけで喧嘩をする町火消もいたとか。幕府が火事場での喧嘩を禁止するお触れをたびたび出したといいますから、よほどです。
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喧嘩相手は火消し同士とは限りませんでした。江戸っ子憧れのヒーロー同士によるド派手な喧嘩もありました。
それは、
町火消VS力士
1805年3月(文久2年2月)のある日、「め組」の鳶人足・辰五郎と長次郎、その知人である富士松が芝神明宮の境内で行われていた相撲見物にやってきました。
芝神明宮エリアは「め組」の管轄だったため、辰五郎と長次郎は役得でタダ見が許されていました。が、ただの知人である富士松はもちろん有料。
ところが辰五郎たちはタダ見させろとゴネたもんだから入り口でひと悶着。
そこに通りかかったのが力士・九竜山。
九竜山にいさめられ、辰五郎たちは一旦引き下がりましたが、その直後、運悪く芝居小屋で辰五郎たちと九竜山がバッタリ出会ってしまい、舞台を芝居小屋に移し第2ラウンドが開始。
最終的に九竜山は部屋から力士仲間を、辰五郎たちは半鐘まで鳴らして火消し仲間を動員し、力士VS町火消による大乱闘にまで発展しました。
このいわゆる「め組の喧嘩」は歌舞伎や講談などに取り上げられ、人々に語り継がれることになりました。
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あの有名絵師はもともと火消しだった!?
最後に、世界的にもその名を知られる有名絵師の意外な出自についてご紹介。
こちらの浮世絵をご覧ください。
ゴッホが模写したことでも有名な『名所江戸百景』「亀戸梅屋敷」という作品です。
描いたのはこの絵師。
歌川広重。
先ほどの『名所江戸百景』のほか『東海道五十三次』など斬新な構図の風景画で一世を風靡し、江戸時代後期を代表する絵師となりました。
じつは、この広重、定火消同心の子であり、生まれたのも定火消の火消屋敷でした。早くに両親を亡くすと跡を継いで広重自身も定火消として火事場に出動しました。
しかし27歳の時、幼い頃から好きだった絵の道に専念するため子どもに家督を譲り隠居、画業に専念し、今に知られる大人気絵師となったのです。
これは歌川広重の作品のひとつ『江戸乃華』(部分)。
描かれているのは出動直前の「を組」の火消したち。火事の発生から鎮火までを克明に描いた『江戸乃華』は火消しだった広重ならではの作品で、江戸時代の火消しの実態を知るための貴重な資料にもなっています。
江戸時代の消防活動は今とはかなり異なりますが、現代につながっていることもたくさんありました。