実用重視の町火消の衣装、組のシンボル「纏(まとい)」
活動費用を町が負担していた町火消。火消人足が着る装束も町から支給され、3年に1度新調されるのが慣習でしたが、その費用もまた町が負担しました。では、どんな衣装だったのか見てみましょう。
渋くてカッコイイ。
頭にかぶっているのは「刺子頭巾(さしこずきん)」という分厚い頭巾。別名「猫頭巾」とも呼ばれています。煙を吸わないようガード機能付き。
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着ているのは「刺子半纏(さしこばんてん)」。普通の半纏に比べると分厚くて丈も長め。手には手袋をしています。燃え盛る炎の中に飛び込むわけですから、火消たちの服にはたっぷり水を含ませ消防活動に臨みました。
これは後姿。遠目にもはっきりわかるように大きく組のロゴが入っています。半纏の柄も組どとに異なり、半纏を見ればどこの組の所属かわかるようになっていました。
前述したように大名火消などは華美でゴージャスな火事装束を身にまとっていましたが、それに比べると町火消はよりシンプルで実用的な服装になりました。まあ、町が費用を負担するのにそんなぜいたくはできませんしね。
これは明治時代に撮影された町火消たちです。左から3番目の人は頭巾をかぶっています。みんな粋な刺子半纏を着ていますな。服装は江戸時代からほとんど変わっていないようですね。
さてさて、町火消といえば欠かせないアイテムがこれ。
纏(まとい)。
纏は消火自体にはまったく関係ないのです。しかし、纏は組のシンボルであり、自分の組の持ち場を示す目印であり、組の仲間たちの団結の象徴でもあったので、重要なアイテムでした。
ちなみに、纏のルーツはこれ。
戦国時代において敵味方を区別する目印として武士が掲げていた、旗印や馬印(うまじるし)です。これが江戸時代になると火事現場で使う目印へ変化したのです。
町火消の生みの親ともいえる名奉行・大岡忠相が火消たちに纏を持たせたのは、士気高揚が目的だったとか。
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当初は「纏幟(まといのぼり)」と呼ばれた幟(旗のようなもの)スタイルでしたが、時代とともに造詣は豪華になり、各組ごとに凝ったデザインのものが登場しました。
たとえばこちら。
一番組い組。
丸いのが「芥子(けし)」で四角いのは「枡」。「芥子」と「枡」……「けし」と「ます」……けします。
そう、「消します」。
なんとダジャレになっているんです。一説にこれを考えたのは大岡忠相とも。いつものようにヒゲを抜きながら考えたんでしょうか。
ほかには
二番組せ組。
なんか、イカみたい。
ちなみに、纏は組のシンボルなので遠目にもどの組かわかるように組名、この絵なら「せ組」なので「せ」と大きく書かれていました。また、下のヒラヒラしたものは「馬簾(ばれん)」と呼ばれるもので、纏を振り回すと威勢よく踊るようになっていました。
そして、こちらの絵で目を引くのが見事な刺青(いれずみ)。町火消には刺青を入れている人が多かったそうです。なぜかというと、江戸っ子が大事にした「粋」という美学を見せるため、傷みに耐えたという勇気を誇るため、やる気をアップさせるため、などといわれています。肌の露出も多いので、見せ甲斐もあったのでしょう。
ユニークな纏をもう一丁。
二番組め組。
なんとカゴになってます。まるで運動会の玉入れのアレみたいです。
最後にもうひとつ。
五番組ゑ組。
すごく重たそう。木槌みたいなのがたくさんついてます。
組のシンボルである纏を持つ「纏持」は、“町火消の花形”ともいえるポジションで、誰でもなれるものではなく、選ばれし者だけができました。
なにせ、かなりの重量のある纏を持つだけでなく、真っ先に火事現場に駆けつけ、纏を持ったまま梯子に登り火事場の屋根にあがり、炎の中、纏を振りたて消火活動の目印となり、仲間の士気もあげなければならないのです。
そのため、腕力、体力、勇気が必要でした。組のシンボルを持っているわけですから、危険が迫ってもギリギリまで踏ん張らざるをえず、結果、命を落とす人も多かったそうです。
ちなみに、纏持の月給は2~3貫文、現代の金額にするとおよそ4~6万円ほど。お金の問題ではないとは思いますが、それにしても危険度に見合わない……。
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