江戸時代の節分は12月!今とは違う驚きの豆まき風習とは

  • 更新日:2020年1月25日
  • 公開日:2017年2月2日

「鬼は〜外、福は〜内」のかけ声とともに豆をまく節分。江戸時代は、節分の時期や豆まきの仕方など現在と違うところもありました。2月3日の節分についてご紹介します。

『恵方果報福乃入豆』(歌川国芳 画)
「福は内〜」とまかれた豆の福にあやかろうと必死な女性たちが楽しそう(『恵方果報福乃入豆』歌川国芳 画)
豆まきをする桃太郎(『桃太郎豆蒔之図』月岡芳年 画)
鬼退治のエキスパート、桃太郎も豆をまいてます(『桃太郎豆蒔之図』月岡芳年 画)

江戸時代の「節分」は現代の12月!? しかも、年に4回も「節分」があった??


現代に生きる我々とっては、「節分=2月3日の豆まきイベント」ですが、本来「節分」というのは、立春・立夏・立秋・立冬という“季節の変わり目”の前日のこと。なので、「節分」は1年に4回あったわけです。

現在、2月3日に行っている「節分」のイベントですが、旧暦の「節分」は現代のカレンダーだと12月中旬から1月中旬あたりになります。

正月、晴れ着に身を包む子ども(『豊歳五節句遊』「正月」歌川国貞 画)
美しい晴着に身を包み女性は羽子板を、子どもは凧を手にお正月気分。旧暦のお正月は今よりもっと春に近かったんです(『豊歳五節句遊』「正月」歌川国貞 画)
年に4回あった「節分」のなかで立春前日の「節分」だけが特別扱いされるのも、お正月に近かったことが理由です。春への移り変わりタイミングであり、1年の始まりにも近い。やがて「節分」といえば「立春の前日の節分」のみを指すようになっていきます。

余談ですが、現代人にとって2月3日にするのが当たり前になっている節分ですが、2021年の節分は2月2日になる可能性が大なんだそう。くわしい説明はややこしいので割愛しますが、そもそも立春が何日になるのかは太陽の動きによって変化するので、節分の日も2月2日から4日の間で変動するのだとか。

2月3日が固定ではないんです(衝撃)。たまたま2月4日が立春で、その前日に行う節分が2月3日という年が長らく続いただけだったんですねぇ。へぇ。2021年以降の節分が何日になるのか気になるところです。

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節分イベントで豆をまくのはなんでだ?


節分でやることといったら外せないのが「豆まき」。節分にまく豆は「打ち豆」とか「鬼豆」とか呼ばれました。現代だと「福豆」呼びが一般的。

江戸時代の人々も江戸城大奥から庶民まで、都市や地方のかかわりなくみんな節分には豆まきをしていました。

葛飾北斎が描いた豆まき(『北斎漫画』(四巻)より)
葛飾北斎によるダイナミック豆まき。いかつい男性が投げつける豆は相当イタイようで、背を丸める鬼がちょっと哀れになります(『北斎漫画』(四巻)より)
さて、江戸時代の節分を見ていく前に“そもそも”の歴史をふり返ってみましょう。

時は平安時代。場所は宮中。

奈良時代に古代中国より日本に伝わった「追儺(ついな)」という行事が大晦日の夜に行われていました。新年を迎えるにあたって、年内の病疫を鬼に見立て追い払う、という行事です。

一方、「追儺」の儀式とは別に、平安貴族たちには「節分」に災害よけと長寿を願い読経をするという風習がありました。

さらにいつの頃からか、「節分」に豆を使って邪気を祓う「豆打ち」という儀式が登場します。

昔の日本人は季節の変わり目、年の変わり目には邪気が入り込みやすいと考えており、さまざまな邪気祓いの儀式を行っていたんです。

そして時代が流れていくなかでこれらがゴチャ混ぜになり、室町時代には現代と同じように「鬼は外、福は内」と唱えながら豆をまくことが節分に行われるようになったそうです。

室町時代に京は相国寺の僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が書いた日記『臥雲日件録(がうんにちけんろく)』にも「明日立春、故及昏景家毎室散敖豆、因唱鬼外服内四字」とあります。意訳すると「明日は立春なのでどの家でも豆をまいて“鬼は外、福は内”と唱える」ということ。550年近くも昔の人々が現代人と同じような節分をしていたというのはひじょーに感慨深いものがありますね。

もともと別物だった「追儺」と「節分」も江戸時代にはすっかり一体化し、「節分=邪気を追い祓うために豆をまく」というのが下々にまで浸透していました。また、「追儺」の儀式も神社などで行われていたようです。

亀戸天神の「追儺」の儀式(『東都歳事記』より)
『東都歳事記』より
これは藤の花で有名な亀戸天神の「追儺」の儀式。「おにやらい」と呼んでいたもよう。

節分の夜、やってきた邪気の象徴である青鬼と赤鬼を神主が問答で負かし退散するというイベントで、画像中央の黒い衣装の人物が神主さん、その前に立ちはだかるのが2匹の鬼さんです。

なお、亀戸天神の「追儺」の儀式は、現代でも節分の夜に行われており、ありがたい福豆をゲットするため多くの氏子が訪れるそうな。

ところで、なんでまくのは大豆なのか?

金太郎が豆まき(歌川国芳 画)
金太郎も豆まき。あっかんべーしている赤鬼がかわいらしい。背後には立派な鏡餅も見え、節分が正月行事であることがわかります(歌川国芳 画)
おまけにもう一枚、豆まきする金太郎。

『坂田金太郎』(歌川国芳 画)
至近距離から全力で豆をぶつけようとする金太郎の表情がこわい(涙目)。おびえる鬼がかわいそうで、もはやどっちが悪役だかわからない(『坂田金太郎』歌川国芳 画)
古来、穀物には邪気を祓うパワーがあるとされていました。あんな小さいのに芽が出て実りをもたらしますからね。生命力の塊です。
かつては大豆ではなく、米や麦、粟(あわ)などを使うこともあったそうですが、大豆が主流になった背景には次のような理由があるとか。

  • 豆は「魔滅(まめ/魔を滅する)」に通じる
  • 中国の医書に「豆は鬼の毒を殺す」とあった
  • 身近でたくさん手にはいる

など。

諸説あって「これが大豆になった理由だ!」というのはまだわからないそうです。現代だと千葉なんかは特産物の落花生をまいたりもしますよね。

また、生の大豆ではなく煎った大豆を使う理由については、「封じ込めた邪気が新たな芽として出ることを防ぐため」とも「魔の目を射る、に通じるため」ともいわれているそうな。ほかにも、豆を炒ると皮がぽろっと取れ実が出ることから、新しい年の誕生を象徴する、なんていう説もあるんだとか。あとで食べるし、煎り豆のほうが食べやすいしね。

また、豆以外のものをまく場合もありました。

浅草寺の節分会(『江戸名所図会』より)
『江戸名所図会』より
こちらは江戸は浅草寺の節分会(せつぶんえ)。

浅草寺の節分会は現代でも盛大に行われており、毎年、たくさんの人が集まっていますが、江戸時代にも大人気でした。今では、成田山新勝寺など各地の大きな寺社が芸能人や人気力士をゲストに迎え盛大な節分会を行っていますが、こうした大々的な節分会を最初に行ったのが浅草寺なんだとか。

江戸のガイドブック『江戸名所図会』にも掲載されるほど大人気だった浅草寺の節分会。現代では集まった大勢の人々に向けてお坊さんたちが福豆をまきますが、江戸時代の浅草寺節分会では豆ではなくこれをまきました。



浅草寺の節分会でまかれたお札(『江戸名所図会』より)

お札


先ほどの絵を拡大したものです。人々が手を伸ばす先にはピラピラと舞い落ちるお札が見えますね。ありがたいお札をゲットしようとみんな必死。

浅草寺の節分会では、本堂の柱に登ったお坊さんが巨大なウチワで扇ぎながらお札を群衆に向けてまいたんだとか。

その数、3,000枚

無事にお札をゲットできた人々は、持ち帰ったお札を玄関にはり魔除けにしたそうです。

しかし1884年(明治17年)にお札をまくのは禁止されてしまったようです(理由は不明)。で、現代同様に豆をまくようになったわけですが、今でもご希望の方にはお札がもらえるそうですよ。

成田山新勝寺の節分会のようすも。

成田山新勝寺の「儺鬼豆」という豆まき行事(『成田山志』より)
『成田山志』より
現代でも有名な成田山新勝寺では節分の夜に「儺鬼豆(やらいおにまめ)」という豆まきイベントをやっていました。豆をまくのは「年男(としおとこ)」の役目で、裃(かみしも)をきちんと着用し、豆を入れた升を乗せた三方を持ちました。

本堂で参拝の儀式を終えたあと、豆はまだかと首を長くして待つ群衆の前に立ち、「福きたれ〜」と大声で3回唱えたあと、3度豆をまいたとか。「年豆」と呼ばれたこの豆を食べると1年中幸せになる、といわれていたので集まった人々は争うように豆を拾いました。そのあたりは今も昔も変わらぬ光景ですね。

現代の成田山新勝寺の節分会
現代の成田山新勝寺の節分会のようす。ものすごい人出です。画像引用元:成田山

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