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地球全体がミニ氷河期だった江戸時代

(『新撰江戸名所』「日本橋雪晴図」歌川広重 画)
こちらは日本橋の冬景色。雪がたっぷり積もって富士山も真っ白、連なる屋根も真っ白です。現代の東京だと数センチ雪が積もっただけで大ニュースですが、当時は積雪量も多かったようですね。
小氷期は14世紀半ばから19世紀半ばの約500年の長期間にわたって続き、特に江戸時代中期頃は非常に寒かったそう。記録によれば、1773年(安永2)、1774年(安永3)、1812年(文化9)の冬には隅田川が凍ったとか!とすると、現在より軽く数度は低いことになります。
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暖房アイテムNO.1は多機能もうれしい火鉢
今なら「う~寒い」となったらスイッチひとつでエアコンが作動し、部屋全体をまたたく間に暖めてくれます。が、江戸時代にはエアコンのように空間全体を暖められるような暖房器具はありませんでした。
家屋の機密性も低く隙間風がぴゅーぴゅー吹くなか、寒さに震える体を温めたい時に使ったのがこちら。

(『時世粧菊揃(いまようきくぞろい)』「つじうらをきく」歌川国芳 画)
火鉢です。
描かれているのは火鉢のなかでも「長火鉢(ながひばち)」と呼ばれるタイプです。ちなみに、江戸っ子は“ひ”と“し”の誤用がみられたので「ながしばち」と言ったそうな。
火鉢の歴史は古く、一説には奈良時代にはすでに原型があったとも。平安時代の女流作家・清少納言の代表作『枕草子』にも、火鉢の前身である「火桶(ひおけ)」が登場します。ずいぶん昔から人々をあっためてくれていたんですね~。とはいえ使える人は貴族や武士など特権階級に限られていました。
さて、時代が下り江戸時代になると火鉢はバラエティ豊かに進化し、庶民にも広く使われるようになりました。

(『当盛美人揃之内』「しんさがみや、とこ」二代歌川国貞 画)
こちらは丸火鉢というタイプ。その名の通り丸い火鉢です。位の高い遊女なのでしょうか。丸火鉢のうちでもかなり豪華版の火鉢を使っています。
金属製の火鉢は金色で、しかも三脚部分が獅子頭になっていてオシャレです。火鉢は実用品としてだけでなく、インテリアにもなっていたんですね。

これは明治時代に撮影された写真です。女性の横に丸火鉢があります。取っ手があってまるでお鍋みたいです。

続いてこちらは長屋でよく使われた手あぶり火鉢。素焼きの丸火鉢で、中に灰をいっぱいに入れて炭を置き、その名の通り手をあぶるようにして使いました。手先くらいしかあったかくならなかったでしょうが、狭い長屋ではこれが精一杯。

(『東京美女ぞろひ』「柳橋きんし」二代歌川国貞)
先ほどもちょっと登場しました長火鉢。木枠の長火鉢は江戸など都市部の庶民に最もよく使われたそう。その理由は長火鉢の多機能性にあります。
暖房器具として活躍したのはもちろん、上の絵のように湯を沸かしたり、ひとり鍋を楽しむこともできました。
餅を焼くことだってできました。さらに、火鉢の本体部分には3段ほどの引き出しが付いており、煙草(たばこ)を入れるなどちょっとした収納にもなっていました。便利! ひとつで多機能な長火鉢は狭小住宅の都市市民にぴったりだったのです。

これは幕末の1863年(文久2~3)に撮影された写真です。3人の女性が長火鉢を囲んでいます。燗を温めているところでしょうか?
丸や長方形などさまざまな形があった火鉢は材質もさまざまで、素焼きのものや木製のものは庶民向け、金属製のものや陶器製のものは遊郭や武家などで使われました。
このように冬のご家庭に欠かせない暖房器具となっていた火鉢ですが、都市部を中心に使われたのには理由があります。それは薪(まき)を使用する囲炉裏(いろり)と異なり、燃料に炭を使うので煙が出ないから。
また、炭は長時間火力を保てるうえボーボー燃える薪に比べると火事の危険性も低いので、江戸などの都市部や家屋が密集する町家で広く使われたのです。
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いつの時代も冬の憩いの場、こたつ
江戸時代の暖房器具として火鉢と並んでポピュラーだったものがもうひとつあります。こちら。

(『絵本常磐草』より)
こたつです。
女性たちがこたつに入って本を読んでいます。なんだか今でもよく見る光景ですね~。
こたつも燃料は火鉢と同じく炭でした。こたつには「掘りごたつ」と「置きごたつ」の2種類がありました。

((『絵本和歌浦』より)
これは掘りごたつです。居酒屋などでよくある今時の掘りごたつとは異なり、江戸時代の掘りごたつは、部屋の床を少し掘り下げ炉を切り、その上に櫓(やぐら)をのせたものでした。絵は男性が竹筒を吹いて炭を起こしているところのようです。
掘りごたつの登場は室町時代といわれ、当初は囲炉裏の上に櫓を置き衣類をかぶせ、その上に足を乗せて暖を取ったそうです。これが江戸時代の掘りごたつもはじめは小袖などの衣類をかぶせていたそうですが、中期以降、綿入り布団が普及すると現代のように布団をかぶせるようになりました。
ちなみに、こたつを使わない冬以外の季節は炉の上に畳などを置いてふさいでおきました。

((『炬燵の娘と猫』歌川国政 画)
一方、こちらは置きごたつ。江戸時代中期頃に登場しました。掘りごたつは床に切った炉の上に設置したので固定式でしたが、置きごたつは持ち運び可能な土製の火鉢を櫓のなかに入れたものなので便利な移動式でした。それにしても、こたつの上にはやっぱり丸くなった猫が似合います。

置きごたつのなかはこんな感じです。丸いのが炭を入れる火鉢です。これに布団をかけて使用しました。現代の電気コタツの原型ともいえるかもしれませんね。ただし、今のように櫓の上に板をのせテーブルのように使うことはなかったようです。
火鉢やこたつを出す日が決まっていた!?
現代ならばエアコンをつけたり、コタツを出したりするタイミングは人それぞれですが、江戸時代はなんと火鉢や炬燵を出す日というのが決まっていました。「炬燵開き」と呼ばれるその日は、旧暦10月最初の亥(い)の日、現在の11月中旬から下旬にあたります。
まず武家でこの日を境に暖房器具が解禁となり、12日後の2番目の亥の日に町家でも暖房器具が解禁されました。偉い武家から先に暖まれるわけです。もうかなり寒かったと思いますが、その日が来るまでは将軍さまといえどもガマン、ガマンでした。
コンパクトさで重宝された寒い夜のありがたいお供、湯たんぽ
近年、湯たんぽが見直されちょっとしたブームになっています。夏には氷枕として使える2wayタイプなんてものもあります。湯たんぽの歴史もなかなか古く、室町時代に中国から日本に伝わったといわれています(諸説あり)。
江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』に「湯婆(たんぽ)、太牟保(たむぽ)は銅製で大きさは枕ぐらい、小さい口がある」とあります。どうやら当初は銅製だったらしいですね。
幕末には陶製の湯たんぽも登場し、その後、ブリキ製やプラスティック製など湯たんぽもバラエティ豊かになっていきました。

さて、ここで問題です。これは一体なんでしょうか?
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正解は、湯たんぽ。
なんとワンコ型。耳の部分がパカリと開いてそこからお湯を注ぐ仕様となっています。かわいいぞ。ちなみに青銅製です。このなんともユニークな湯たんぽ、誰のものだったかといいますと……。この方です。

三代将軍・徳川家光です。
「余は生まれながらの将軍である」とおっしゃった方です。犬の湯たんぽだけに、生類憐れみの令で有名な“犬公方”五代将軍・綱吉のものともいわれていますが、家光所有説が有力なようです。
もうひとつコンパクトで布団のなかに入れて湯たんぽのようにも使った暖房機器がありました。それがこれ。

行火です。「あんか」と読みます。こちらも歴史は古く室町時代から使われるようになったといわれ、江戸時代中期に広く使われるようになりました。
木製の囲いのなかに土製の火入れを置き、炭火を起こして暖を取るもので、手軽に持ち運びできる暖房器具として重宝されました。こたつがさらにコンパクトになったもの、といった感じでしょうか。

((『猪牙船の宗十郎 三代目沢村宗十郎と梅本の茶屋女』初代歌川豊国 画)
手前にいる男性は江戸時代中期に三都(江戸・京・大坂)で人気を博した歌舞伎役者・三代目沢村宗十郎です。布団のなかに行火を入れて温まっています。
冬のおでかけの必需品、携帯カイロも江戸時代にすでにあった!?
服に貼るタイプや靴に入れるタイプなど携帯カイロも多種多様あり、現代人の冷えた手足を外出時にも温めてくれています。じつは江戸時代にもカイロのように外出時に持ち歩けるあったかグッズがありました。それがこちら。

「ただの石じゃん!」とお思いになるのはごもっとも。なにせ石ですから。しかし、ただの石ではありません。「温石」です。「おんじゃく」と読みます。これが昔のカイロなのです。
使い方は超シンプル。この石を火やお湯などで温め、布などでくるみ懐に入れるだけ。ちなみに、写真は福井県一乗谷で出土した戦国時代の温石で、大きさは12.5cm。穴が開いているのは、温める時に直接石を触るとヤケドするのでこの穴にヒモや棒などを通したのではないかといわれています。
温石もかなり古くから使われていたようでなんと、平安時代末期頃にはあったとか。
ほかにも江戸時代前期の元禄期(1688~1704)に誕生したといわれる携帯あったかアイテムがこれ。

灰式懐炉(カイロ)です。
写真は江戸時代のものではありませんが、江戸時代と同様のつくりのものが今でも入手できます。300年以上現役を続けるスゴイやつです。写真をご覧ください。
ケースの真ん中に紙で包まれたものがあります。このなかには「懐炉灰」と呼ばれる灰が入っているのですが、その材料は木炭の粉末にナスの茎や桐などの灰を混ぜたもの。
ナスの茎や桐などの灰には燃焼時間を持続する効果があるのだとか。で、この懐炉灰に火をつけ、コンパクトな金属ケースに入れ使用しました。
忘れちゃいけない暖房の元祖・囲炉裏
さてさて、ここまで便利な室内用暖房器具と携帯用あったかアイテムを見てきましたが、都市部以外の郊外や農村ではやはり囲炉裏が暖房のメインでした。

((『外と内姿八景』「桟橋の秋月 九あけの妓はん」歌川広重 画)
もともと囲炉裏は調理場として機能していましたが、江戸時代になると調理場が独立、囲炉裏は暖を取る場所へと役割を変えました。薪を燃料に盛大に炎を上げる囲炉裏は、部屋を広く温めてくれる半面、煙たいのが玉にキズでした。
そして、最も原始的な暖の取り方といえば、やはりこれでしょう。

そう、重ね着!
着物やどてら、布団をひたすら重ね着して寒さをしのぐのです。写真は明治時代のものですが、めちゃくちゃ布団を重ねてます。重たくないのでしょうか……。
冬は寒いもの――ならば思いっきり楽しもう!
火鉢やこたつ、カイロなど暖房器具もあったとはいえ、ミニ氷河期にあり今より格段に厳しい寒さのなかにいた江戸時代の人々。
しかし、だからといって家に引きこもってばかりにならないのが“なんでも楽しもう精神”にあふれた江戸っ子たち。春に花見をするように、秋に月見をするように、冬には「雪見」を楽しみました。

((『上野不忍池 雪の景』歌川広重 画)
これは上野の不忍池に雪見に来た美女3人組。同地は雪見の名所として有名だったそうです。ほかにも隅田川や愛宕山(あたごやま)、飛鳥山なども雪見の名所としてにぎわいました。
花見と宴会が切っても切り離せないのと同じく、雪見の宴会なんてのもありました。

((『浮画雪見酒宴之図』歌川豊春 画)
雪景色を眺めながら酒宴の真っ最中。庭には大きな雪玉をつくる子どもも見えます。ちなみに、雪を丸めて大きくするこの遊びは「雪まろげ」「雪転がし」と呼んだそうで、現代の雪だるまにつながるとか(諸説ありますが)。
ちなみのちなみに、冬なのに襖(ふすま)や障子が全部開け放たれているのは、当時まだ珍しかった遠近法の効果をより効果的に見せるためらしい。
また、炬燵(こたつ)や行火(あんか)を置いた屋根船に乗り隅田川を下りながら酒を楽しむ「雪見船」も冬の粋な遊びとして人気がありました。

((『雪見八景』「晴嵐」初代歌川豊国 画)
女性が雪見船に乗っています。炬燵でぬくもる女性の前にはワイングラスのような酒器がありますね。シャレてます。
最後は、雪の楽しみといえば忘れてならない「雪だるま」でお別れしましょう。
現在の雪だるまといえばこんな感じのイメージではないでしょうか。

丸い雪玉がふたつに目がついたり口もあったり。では、江戸時代の雪だるまはというと……

((『江戸名所道戯尽』「廿二 御蔵前の雪」歌川広景 画)
はい、完全に「雪だるま」です。雪でできただるまです。お供え物が乗せられているように、江戸時代、雪だるまは縁起物だったようです。それにしても、なんともいえないかわいらしさがありますね~。しかもデカイ。
雪だるまは冬の風物詩として浮世絵にもしばしば登場しますが、時にはこんなユニークな雪だるまも。

((『初雪の戯遊』歌川国芳 画)
雪だるまならぬ“猫だるま”。本当にこんなのがあったんでしょうか。猫大好き絵師として有名な国芳の作品なだけに、国芳らしいシャレなのかもしれませんね。裸足になって猫だるまをつくる女性たちが楽しそうで、キャッキャした嬌声が聞えてきそうです。
江戸時代の冬の過ごし方、いかがだったでしょうか。現代人なら1日で根をあげそうですが、温石を懐に入れ雪見船に揺られるのは体験してみたいですね。
あわせてどうぞ→
「ミニ氷河期だった江戸時代 庶民はどんな服装で冬の寒さをしのいだのか?」
「一人鍋が定番! 江戸時代の冬の食事は現代とちょっと違っていた フグは庶民向け」
「安い傘で5,000円!? 現代と違う江戸時代の雨具を画像つきでまとめてみた」
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。