景元はなぜ“庶民のヒーロー”になったのか?
遠山景元が北町奉行に就任した翌年、時の堅物老中・水野忠邦(ただくに)が主導する「天保の改革」がスタートします。
教科書に載ってた「江戸時代の三大改革」のひとつです。
ざっくりいうと、12代将軍・家慶の前の将軍である家斉(いえなり)が享楽政治を長年行った結果、政治は腐敗、幕府の財政は傾きまくっていました。一方、浮世絵や歌舞伎など庶民文化が華開いたのもこの時代です。
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そうした“上も下もぜいたくを謳歌”の空気を今こそ正す!!と老中・水野忠邦が始めたのが「天保の改革」です。
質素倹約、綱紀粛正を旨にとにかく厳しく、とにかく細かくいろんなものを規制・禁止しまくりました。
改革の手は庶民の生活にもおよび、
ぜいたくな料理もダメ。
派手なファッションもダメ。
過激な小説もダメ。
美人画もダメ。
通行のジャマなので夕涼みもダメ。
風紀が乱れるから混浴もダメ。 (注 江戸時代の銭湯は基本混浴でした)
当時、庶民の娯楽として大人気だった寄席(よせ)も7分の1にまで減らされ大打撃を受けました(ほんとは全滅させたかったもよう)。
北町奉行となった景元は、若い頃に町人に混じって暮らしていた経験から下々の世情に通じている、という点が買われ、町人のぜいたくを取り締まる指揮官を任されます。
しかし、景元は乗り気がしません。それどころか町人の生活をあまり厳しく取り締まるのに反対でした。
「こんなに厳しく禁止令を出さなくても、身分相応ならいいのでは?」こう考えていた景元は、上長である老中・水野忠邦と対立するように。
そんな景元と対照的に、忠邦の意に沿い精力的にぜいたく取り締まりを指揮した男がいました。
北町奉行・景元の同僚である南町奉行。
名を鳥居耀蔵(とりいようぞう)。
保守的で頑迷な鳥居は「庶民がぜいたくするからつけあがって武士の権威が下がる。庶民のぜいたくなど不要、不要!」という考えのもと、市中にスパイを放ったり、おとり捜査を行ったりとあらゆる手段を使ってぜいたく取り締まりにあたりました。
当然ながら人々に忌み嫌われ、付いたあだ名は“マムシの耀蔵”とも“妖怪”とも。む、あだ名ちょっとカッコイイぞ。
魅力的な悪役がいるとヒーローは輝くもの。
遠山景元が“庶民のヒーロー”として人々から愛されるようになった裏には、“庶民の敵”として人々に忌み嫌われた鳥居耀蔵の存在があったのです。
「景元=ヒーロー、耀蔵=ヒール」という構図を決定づける象徴的なできごとが起こりました。庶民の娯楽の王様、歌舞伎が存亡の危機に立たされたのです。
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「天保の改革」がスタートした1841年(天保12年)、現在の中央区日本橋人形町にあった幕府公認の芝居小屋「中村座」と「市村座」が火事で焼失したのですが、「これはチャンス」とばかりに老中・水野忠邦が目論んだのは歌舞伎そのものの全面禁止。
一説には、その裏に、南町奉行・鳥居耀蔵の進言あり。
さらに、当時のトップスター歌舞伎役者・七代目市川團十郎が江戸追放刑に処せられる、という事件も起きます。理由は「私生活がぜいたく」というものですが、一説に、当代きっての人気スターを厳しく処罰することで幕府の改革への本気度を人々に知らしめようとしたのだとも。
いわばスケープゴートにされたわけですが、この團十郎追放も鳥居耀蔵が指揮しています。
水野&鳥居ペアは徹底して歌舞伎を弾圧し滅亡に追い込もうとするわけですが、これに対抗したのが、ほかならぬ遠山景元。
「庶民の最大の楽しみともいえる歌舞伎を根絶やしにするのは反対です。それは文化そのものを奪うことにほかなりませぬ」
ほとんど噛み付かんばかりの景元の猛反対に堅物老中・水野忠邦もさすがに折れざるをえなく、歌舞伎小屋は中心地から離れた地域に移転する、ということで存亡の危機から脱することができました。
その移転先が現在の浅草、猿若町。
浅草と歌舞伎の関係はこんな昔から続いていたわけです。
当然、歌舞伎関係者からは拍手喝采。
「景元さま、ありがとう~!!!」の気持ちを込めて遠山景元(金四郎)をモデルにした人物が活躍する芝居をたくさん上演しました。もちろん、敵役は鳥居耀蔵をモデルにした人物。
こうした歌舞伎や講談が繰り返し上演されるなかで、現在知られる「遠山の金さん」の基本ストーリーは完成しました。
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