【画像あり】江戸時代の見世物小屋は謎の生物、巨大細工や曲芸など何でもありだった!

  • 更新日:2017年8月18日
  • 公開日:2016年8月11日

「見世物小屋」をご存じでしょうか?現代ではアングラなイメージのある見世物ですが、江戸時代には老若男女が楽しむ娯楽の王様でした。謎の生き物から驚きの細工ものまで、江戸時代の見世物をまとめました。

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江戸時代の見世物小屋(『両国大曲馬の賑ひ』歌川国芳 画)
江戸の見世物のメッカ、両国。大通りには見世物小屋が立ち並び、大勢の人々でにぎわった(『両国大曲馬の賑ひ』歌川国芳 画)

人気興行の動員数は数十万人!?江戸時代後期に爆発した見世物ブーム


日本の見世物の歴史は室町時代に始まるといわれ、江戸時代に発達し“庶民の娯楽”として大ブームを巻き起こしました。

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江戸時代後期から戦後頃まで見世物は日本全国で見られ、全盛期には数百の見世物小屋があったのですが、現在、見世物興行を行うのは大寅興行ただ1社なんだとか。

現代の見世物小屋(新宿・花園神社での酉の市にて)
新宿にある花園神社で行われる酉の市では、今でも見世物小屋が出ています。画像引用元:gathery
テレビやゲームなど娯楽の多様化、ライフスタイルの変化のほか、人権問題や動物愛護の観点からも興行が難しくなり数が激減していったようです。

ですが、そもそも娯楽が今よりずっと少なかった江戸時代、人々は娯楽に飢えていました。

そこで人気を集めたのが見世物でした。まず、入場料がリーズナブル江戸時代後期の文政期(1818~30年)で見ると、入場料(木戸銭)は32文(約640円)ほどだったとか。

江戸時代の見世物小屋の入り口
見世物小屋の入り口。呼び込みの巧みな口上にお客が足を止める
同じく江戸時代の娯楽の代表格、歌舞伎のチケットが一番安くても100文(約2,000円)くらいだったことを考えても見世物は気軽に楽しめる娯楽でした。

現代において見世物小屋と聞くと、へび女や人間ポンプなどいかがわしくグロテスクなアングラというイメージがありますが、江戸時代の見世物小屋は、サーカスと動物園と美術館とお化け屋敷と大道芸をごった煮にしたような感じで、老若男女誰もが楽しめる場所だったようです。

ちなみに、江戸の見世物のメッカは浅草寺の裏手にある浅草奥山と、回向院の近くにある両国広小路。

江戸時代の浅草 雷門(『江戸名所尽 金龍山浅草寺雷神門之図』渓斎英泉 画)
今も観光地として大人気の浅草寺雷門。参詣したあと見世物を楽しむ人がたくさんいました(『江戸名所尽 金龍山浅草寺雷神門之図』渓斎英泉 画)
神社の参詣客を当て込んで見世物小屋が集まったそうですが、見世物が人気になると参拝のほうが「ついで」になったとか。

ほかの大都市でいえば、京では四条河原、大坂では道頓堀や難波新地、名古屋では大須などが見世物のメッカとしてにぎわいました。今も繁華街の場所ばかりですね。

近年の見世物興行はお祭りの時など数日間行われるだけですが、江戸時代の見世物興行は一般的に50~60日くらいは開催していたのだそう。さらに人気興行ともなれば延長興行も行われ、数十万人ものお客を動員することがあったといわれます。ライオンキングかな?


見世物小屋の気になる内容は?



江戸時代の見世物小屋における演目は大きく分けて3つでした。



  • 曲芸・軽業…軽業、手品、曲芸、足技、曲馬 他

  • 細工見世物…人や動物の細工、からくり、人形 他

  • 動物見世物…珍獣、奇獣 他




それぞれを具体的に紹介します!

その技術は世界トップレベル!海外進出するスターも出た「曲芸・軽業」



まずは軽業

アクロバティックな身体芸は常に大人気。なかでも幕末に登場した早竹虎吉は一世を風靡する大スターとなりました。

『大坂下り早竹虎吉 於西両国ニ興行仕候』(歌川国芳 画)
『大坂下り早竹虎吉 於西両国ニ興行仕候』(歌川国芳 画)
虎吉は人間離れした身体能力で軽業をこなした他、三味線などの楽器も得意。演出力にも優れ、庶民におなじみの物語を演目に取り入れたり、衣装や道具を本格的にするなど軽業をド派手なエンタメショーに仕上げ、観客のハートをわしづかみにしました。

当代きっての大スターとなった虎吉、江戸時代がまさに終わろうとする1867年(慶応3年)、一座を率いて渡米し、ニューヨークやサンフランシスコでの興行も果たしています

幕末の軽業師の技術は世界的に見てもトップレベルだったといわれ、虎吉以外にも多くの日本人軽業師・曲芸師たちが海外進出を果たしました。

余談ですが、日本で初めてパスポートを支給されたのも曲芸師なんだそう(諸説あり)。1866年(慶応2年)に幕府が発行した「御印章」がパスポート第一号といわれ、支給されたのは手品師で曲芸師の隅田川浪五郎。パスポートには名前・住所・年齢の他、身長や外見の特徴なども書かれていました。写真が普及していない時代なので、本人確認は「細面で鼻が高い」とかアバウトな外見特徴で判断したんでしょう。

浪五郎は「帝国日本芸人一座」という曲芸師や手品師などの選抜チームの一員として、アメリカやパリ、オランダなど世界各地を巡業し、絶賛されたんだとか。すごい。

帝国日本芸人一座の興行はフランスの新聞「ル・モンド」にも掲載された
帝国日本芸人一座の興行はフランスの新聞「ル・モンド」にも掲載されるほど大注目を集めました
さて、話を見世物の演目に戻して。

こちらも江戸時代の見世物の人気演目。

曲独楽(きょくごま)。

二代目・竹澤藤次(『龍宮玉取水中曲独楽 竹澤藤次』歌川国芳 画)
曲独楽をド派手なショーに仕立て人気を博した二代目・竹澤藤次。こちらの絵では水流に乗って独楽が回っています。どうなっているの!?(『龍宮玉取水中曲独楽 竹澤藤次』歌川国芳 画)
現代ではあまり見られないコマを使った曲芸。コマの刃渡りに糸渡り、扇子の上でコマを回す「地紙止め」に着物の袖の上を渡る「衣紋(えもん)流し」などなど、見た目にも美しいコマを使っての華麗な技の数々に人々の目は釘づけ。

また、馬上でさまざまな演じる曲芸も大人気。

曲馬です。

馬上で曲芸を演じる「曲馬」(『観物画譜』より 歌川国鶴 画)
こちらはひとりで5役を演じた曲馬。衣装を替えながら役に合わせた舞踊を演じたというからビックリ(『観物画譜』より 歌川国鶴 画)
華やかな衣装に身を包み、馬上で歌舞伎の舞踊やひとりで何役も演じる「早替り」を演じたんだそう。

そのほかユニークなところでは、

曲屁(きょくべ)。オナラ芸です。

オナラ芸・花咲男(『猿猴庵合纂』より)
名古屋興行でも曲屁を披露され話題になりました(『猿猴庵合纂』より)
曲屁における不動のスターは、霧降花咲男(きりふりはなさきおとこ)。のち曲屁福平と改名したそうです。独学でマスターしたというおなら芸は非常に巧みで、かの平賀源内もゾッコン惚れ込み『放屁論』という本まで書いてます。

江戸時代の見世物はまるでサーカスです。

現代人にはピンとこない?大ブームだった「細工もの」



見世物興行のなかで、江戸時代後期~幕末に大ブームとなり一番興行件数も多かったのが「細工見世物」のジャンルです。

まずは、籠(かご)細工

ブームのきっかけは、1819年(文政2年)に江戸の浅草奥山で見世物にかけられた、大坂の籠職人・一田庄七郎による。「三国志」の猛将・関羽。その大きさはなんと7m。デ、デカすぎぃ!

関羽の巨大な籠細工(一田庄七郎 作/『新卑姑射文庫』より 猿猴庵 著)
見世物に登場するや話題騒然となった関羽の巨大な籠細工。こちらの絵は名古屋の見世物で出された一田庄七郎の関羽像(『新卑姑射文庫(しんひごやぶんこ)』より 猿猴庵 著)

関羽の目が若干死んでますが、とにかく巨大でカラフルな籠細工により興行は大成功、期間延長を重ね100日にもわたるロングランとなり、動員数は40万人とも50万人だったとも。

籠細工人気はほかの芸能ジャンルにも飛び火し、歌舞伎ではセリフに籠細工のことを盛り込んだり、衣装に籠目模様をあしらうなど流行に便乗しました。また、籠細工をテーマにした本も多数出されるなど盛んにメディアミックスがされ、江戸時代、空前の籠細工ブーム到来となりました。

籠細工の名人・一田庄七郎の作品を描いた絵(「細工人 浪花 一田庄七郎」)
籠細工の名人・一田庄七郎は籠細工ブームの牽引役として大活躍し、その作品を描いたものも多い。竹で編んだクジャクのクオリティが高すぎてヤバい(「細工人 浪花 一田庄七郎」)
籠細工の大ヒットにより見世物業界は細工物が大盛況、籠細工以外にも貝細工、麦わら細工、菊細工、ギヤマン(ガラス)細工など次々と新たなヒット作が登場しお客を楽しませました。

たとえば、菊細工

見世物に登場した菊細工(『菊乃細工物 両国広小路ニおゐて 市川団十郎 瀬川菊之丞 暫』歌川豊国 画)
1819年(文政2年)に江戸は両国広小路で見世物に登場した菊細工を描いたもの(『菊乃細工物 両国広小路ニおゐて 市川団十郎 瀬川菊之丞 暫』歌川豊国 画)
ちょっと菊の描写が細かすぎて見ているとゾワゾワするのですが、今でいう菊人形のようなものでしょうか。この絵では歌舞伎十八番のひとつである歌舞伎の演目「暫(しばらく)」の主演役者がモデル。

こちらは、きらめくガラス細工の精巧さで人気を集めました。

ギヤマン細工

美人画の背景にギヤマン細工の異国船

美人画の背景に描かれているのは、幕末の見世物小屋に登場したギヤマン細工の異国船。船上の人形もカラクリ仕掛けになっていたそう。

次は、

カラクリ人形

江戸時代の巨大カラクリ人形(『浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図』橋本貞秀 画)
『浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図』(橋本貞秀 画)
上記画像は、1847年、浅草奥山での見世物のために準備された巨大カラクリ人形。見世物小屋のサイズも間口40間(約73m)と超巨大。

しかも、この巨体がゼンマイ仕掛けで動くというのだから興行前から話題沸騰。事前に浮世絵もたくさん出回りました(これもそのなかの1枚らしいです)。

しかし、この空前絶後の巨大カラクリ人形が日の目を見ることはありませんでした。興行直前に寺社奉行から「待った」がかかり興行は中止。これには江戸っ子たちも超ガッカリ……。

興行中止の理由については、ぜいたくを禁じた「天保の改革」のなかで出された「大造り見世物の禁止」にひっかかったからだとも。

細工見世物の新ジャンル「生人形」がリアルすぎて鳥肌もの



幕末になると細工見世物のなかに新たなジャンルが登場しました。

それが生人形(いきにんぎょう)。

生人形(松本喜三郎 作)
リアルさを極限まで追求したまるで生きているかのような人形が特徴。これは生人形の第一人者にして天才人形師・松本喜三郎の作品。このリアルさ。ちょっと怖いくらいです。

もうひとつ、松本喜三郎の代表作「谷汲観音」をご紹介。こちらは喜三郎の出身地である熊本にある浄国寺というお寺に安置されています。

松本喜三郎の代表作「谷汲観音」

なめらかな肌の質感、優しげながら色っぽいまなざし、ほころんだ口からのぞく歯――人形とは思えないほどのリアルさと、人間では出せない神秘的な雰囲気が相まって見る者の心を揺さぶります。

こうしたリアルな人形を「生人形」と称して見世物にしたのも松本喜三郎といわれ、黒船来航の翌年の1854年(安政元年)に大坂で本格的にデビューし大評判を取ると、翌年、江戸に進出し話題騒然となりました。

その時に生人形として造形したのは「異国人」。といっても現代人がイメージする「外国人」とはぜんぜん別物でこんな感じ。

異国人の生人形(『観物画譜』より「浅草奥山生人形」)
『観物画譜』より「浅草奥山生人形」
手がめちゃくちゃ長い「手長」に、足がむちゃくちゃ長い「足長」という異国の人。人というか、もはや妖怪です。一説に、黒船来航による不安定な政情や人々の外国に対する不安感などが反映されているともいわれています。

この異国人のように、生人形は実際の人間ではなく、想像上のキャラクターや物語の登場人物、歴史上の偉人などを題材にしており、有名なシーンを何体もの人形で再現して観客に見せました。いわばジオラマです。

江戸時代の人々を魅了し明治時代に入っても高い人気を集めた生人形ですが、その多くは海外に流出してしまっているそうです。

珍獣からミイラまで見世物小屋は不思議な動物園?



江戸時代、見世物小屋が動物園の役割も果たしていました。ということで、

動物見世物

なかでも2大スターともいえる動物がいました。

象は、江戸時代の動物見世物で人気だった

です。今でも人気者。パオーン。

象さんと人気を分け合ったのが、こちら。

ラクダは、江戸時代の動物見世物で人気だった

ラクダです。ちょっと意外。

象もラクダも今では「珍獣」と呼ぶには身近になりすぎた感がありますが、江戸時代には舶来動物として外国から長崎や横浜などに運ばれてきてブームとなりました。70年代に上野動物園にやってきたパンダが巻き起こしたパンダブームに似たような感じ。

さて、アメリカ船によって横浜へやってきた1頭のアジア象(メス/3歳)が江戸の両国で見世物にかけられたのは1863年(文久3年)のこと。

江戸時代、見世物にかけられたアジア象(『中天竺舶来大象之図』歌川芳豊 画)
『中天竺舶来大象之図』(歌川芳豊 画)
初めて目にする「象」なる小山のごとき巨大な生き物に人々は仰天、その評判は江戸中を駆け巡り、興行は大ヒット、数多くの浮世絵が出され、その後も各地を巡業しました。

じつは江戸時代に象が江戸へやってきたのはこれが最初ではなく、江戸時代中期の1728年(享保13年)にも中国船によって長崎へ2頭の象(オスとメス)が運ばれ、かの“暴れん坊将軍”8代将軍・徳川吉宗に献上されたのだとか。

一方のラクダが来日したのは、1821年(文政4年)のことで、オランダ船に乗ってオス・メス2頭のラクダが長崎へやってきました。

江戸時代、見世物にかけられたアジア象(『中天竺舶来大象之図』歌川芳豊 画)
ラクダの見世物は異国情緒を盛り上げるため、唐人風のファッションをした人が太鼓やトライアングルなどを演奏しました(『観物画譜』より「駱駝之図」歌川国安 画)
その後、このラクダたちは大坂、続いて江戸で見世物にかけられ、“ラクダブーム”を起こすほど大きな話題となりました。一説に両国での見世物興行ではラクダ見たさに1日だけで5,000人もの人が押し寄せたこともあったとか。

江戸時代におけるラクダの見世物(『和合駱駝之世界』より)
大盛況のラクダの見世物を描いたもの。評判を聞いた人々がラクダを見ようと押すな押すなの大盛り上がり(『和合駱駝之世界』より)
今では「動物園の人気者」とはいい難いラクダですが、江戸時代にはたいそうな人気者でした。

もっとビックリなのが、象やラクダなどの「珍獣」には見るだけでありがたいご利益がたくさんあったということ。

たとえば象はひと目見ると「七難去って七福がやってくる」というラッキーアニマル。ラクダはもっとすごい。ご利益盛りだくさん。ざっと並べると……



  • ラクダの絵を貼っておくだけで、疱瘡(ほうそう)・麻疹除けになる

  • ラクダを見たり、ラクダの絵を貼ると夫婦仲がよくなる

  • ラクダの尿は霊薬となり、瀕死の病人も元気になる

  • とにかく見ればなんにでも効くし、いいことある




ラクダさん、すごいよ……すごすぎる。もはや火の鳥レベルの霊獣っぷり。

ほかにも、豹(ヒョウ)や虎、ヒクイドリ、クジャク、オウム、ヤマアラシなどといった舶来動物も「珍獣」として人気を博しました

江戸時代、豹は虎のメスと考えられていた(『舶来虎真図』)
江戸時代、豹は虎のメスと考えられており、両者の区別はあいまいだったよう。こちらの絵もタイトルに「虎」とあるが描かれているのはどう見ても豹(『舶来虎真図』)
見世物のなかには豹と謳いながら大きな猫を見せる、なんてインチキなとこもあったとか。

また、外国からやってきた動物ばかりでなく日本にいる動物でも、普段あまりお目にかからないオオカミやキツネ、アザラシ、オオサンショウウオなども見世物の人気者になりました。

江戸時代、熱田の海沿いに迷い込んだアザラシ(『海獣図』大窪昌章 画)
『海獣図』(大窪昌章 画)
これは1833年(天保4年)に尾張の熱田の海沿いに迷い込んだアザラシ。このかわいい闖入者をひと目見ようと現場は大にぎわい、小舟で見物できる商売を始める者やアザラシグッズを販売する者なども登場し、アザラシブームに沸きました。まさに、江戸時代の「タマちゃん」。その後、このアザラシは捕獲され、見世物にかけられさらに大人気になったんだとか。

江戸時代の見世物は動物園の一面もあったんですね。ちなみに、日本初の動物園は上野動物園で、開園は1882年(明治15年)のことでした。

え?こんなものも見世物に!?



見世物のなかにはアヤシゲなものもありました。たとえば、1805年(文化2年)の見世物ではこんなものが登場。

江戸時代の人魚(瓦版より)

人魚です。

現代の人魚のイメージとだいぶ違いますが、江戸版マーメイドはだいたいこんな感じ。

見世物にかけられたのは、越中国(現・富山県)で漁師を悩ませていた人魚。鉄砲で撃ち取られたらしい。

この人魚、ひと目見れば寿命は延び、悪事災難はどっか行き、一生幸せ間違いない、というものすごいご利益のオンパレード。女房を質に入れても見に行くしかない!見世物興行が行われた場所など詳細は不明ですが、間違いなく大盛況だったことでしょう。

人魚といえば、こちらも忘れてはいけない。

人魚のミイラ

江戸時代の人魚のミイラ(国立民族学博物館 が再現)
画像引用元:国立歴史民俗博物館
これは国立民族学博物館が江戸時代の人魚のミイラを再現したもの。人魚というファンタジーなイメージと程遠い不気味さです。

じつはこのミイラ、上半身は猿、下半身は鮭でできているそうで、江戸時代にはミイラづくりの専門職人がいたんだとか。いや、驚き。ミイラづくりの技術は相当なものだったようで、海外にも輸出され「すわ、新種か!?」と勘違いする学者もいたとか。恐るべしメイドインジャパンクオリティ

ほかにも、河童(かっぱ)のミイラ、鬼のミイラ、龍のミイラなどさまざまなミイラが見世物に登場し、ちょっとしたミイラブームとなっていたようです。

他、変わったところではこちらも大きな話題となりました。

犬産人面狗(『街談文々集要』より、石塚豊芥子 画)

人面犬です。

そもそも人面犬が江戸時代にすでにいたことがビックリ。1810年(文化7年)に生まれた子犬のなかに人間ぽい顔をしたいわゆる「人面犬」がいたそうで、さっそく両国で見世物にかけられたんだとか(ソース 『街談文々集要』)。

ちなみに、この絵を紹介すると「いったいどの子犬が人面犬だというのか?(みんな人っぽいぞ)」と物議を呼ぶのですが、

江戸時代の人面犬
こちらが人面犬ですね。

また、多肢の犬など奇形の動物も見世物に出たようです。このあたり、今なら確実に動物愛護団体がだまっちゃいないでしょう。

別記事で江戸時代の未確認生物・物体(河童や人魚、UFOなど)を紹介していますので、合わせてご覧ください。

身長が高すぎたばっかりに……「力持ちの大女」として人気者になった女性



1809年(文化6年)、浅草の見世物に登場したのはひとりの女性でした。

「大女・淀滝」と名付けられたこの女性、本名は「つた」。23歳だったといい、もとは品川の旅籠で飯盛女をしていたそう。

江戸時代の女性は平均身長143~146㎝くらいといわれてますが、淀滝は約188㎝(6尺2寸)。現代のモデルでもこんな高身長はめずらしいので、当時にあってはさぞ目立ったはず。

「大女・淀滝」は背が高いだけでなく、片手に持ったぶ厚い碁盤をうちわのように扇いでロウソクの火を消したり、米俵を担いだりなどといった怪力も見せ、人気者となりました。

人気者といえば華やかなイメージですが、背が人よりずば抜けて高いばっかりに見世物にされるというのは現代人から見るとなんだかちょっと気の毒なような気もします。

大きすぎる故に見世物の人気者となった女性はほかにもいました。

「お松」「お竹」「お梅」の10代三姉妹

大女として人気だった江戸時代の3姉妹(『淀川八幡於寺内興行』二代歌川豊国 画)
『淀川八幡於寺内興行』(二代歌川豊国 画)
肥後国(現・熊本県)生まれ。ご覧の通りのぽっちゃりさんなのですが、ぽっちゃり具合がケタ外れ。



  • 16歳の長女お松は身長6尺8寸(約206㎝)の体重30貫800目(約115㎏)

  • 11歳の次女お竹は身長5尺7寸(約173㎝)の体重25貫700目(約96㎏)

  • 8歳の三女お梅は身長4尺8寸(約145㎝)の体重18貫800目(約70㎏)




資料により数字に多少のバラつきはありますが、いずれにしても信じられないビッグサイズ。

遠路はるばる肥後から出てきて、江戸で見世物となり数多くの浮世絵にも描かれた三姉妹。とっても温厚でいい子たちだったそうです。

あの有名絵師も名古屋で見世物を開催していた!?



江戸時代が生んだ世界に誇る天才絵師も、筆をもって見世物興行を行ったことがありました。

その人物とは、

葛飾北斎の自画像

葛飾北斎

1817年(文化14年)、尾張の見世物のメッカ・大須。

名古屋に滞在していた北斎は、120畳敷きの巨大な紙に即興で達磨を描くという途方もないパフォーマンスを行うと予告します。

この奇想天外な見世物を告知するポスター(引札)があちこちに貼られ、開催前から大注目を集めました。

大達磨揮毫の予告黒摺引き札(葛飾北斎の画)
北斎自ら描いたイベントのポスター(引札)
さて、当日の会場は大勢の見物客であふれかえります。

葛飾北斎が巨大ダルマを描く様子(『尾張名所図会 附録』)
『尾張名所図会 附録』
北斎は袴姿にたすき掛けで会場に現れると、用意した3種類の筆を使い分け即興で巨大ダルマを描いていきました。昼頃から描き始め、描き終った頃には夕方になっていたそう。天才絵師による、この仰天パフォーマンスは話題騒然、大評判になったそうです。

巨大達磨の絵そのものは残念ながら戦災でなくなってしまい、今では先ほどの引札だけが残っています。

ちなみに、2011年の北斎展にて同サイズで再現され話題となりました。

葛飾北斎が描いた巨大ダルマの再現(2011年 福岡市博物館にて)
2011年に福岡市博物館で開催された北斎展でお披露目された巨大ダルマの再現。で、でかい。画像引用元:

タイムトラベルできるものなら江戸時代の見世物に足を運んでみたいものですね。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。