• 更新日:2017年8月27日
  • 公開日:2016年7月5日


七夕に欠かせない食べ物って?


七夕に欠かせない食べ物ってなんだと思いますか? 今でも七夕の時期になるとレシピサイトなどでよく検索されるアレです。それはなにかといいますと・・・・・・



七夕といえばそうめん

そうめんです。

ちなみに、現在、7月7日は「そうめんの日」なのだそう(by全国乾麺協同組合連合会)。

江戸時代、七夕には将軍様も京のお公家さんも庶民もみんなそうめんに舌鼓を打ちました。また、そうめんは七夕の贈答品としてもポピュラーで、商家は得意先にそうめんを届けたりしました。

川柳にも「色紙の ついでにそうめん 買いにやり(七夕飾り用の色紙を買うついでにそうめんのおつかい)」という句があるほど、「七夕にそうめん」は人々にとって当たり前だったようです。

ではなぜ、そうめんなのか?というと、『日本歳時記』(1688年)という書物には「七夕にそうめんを食べるのは、七夕に索餅(さくべい)を食べるとおこり(熱病)にかからない、という中国の伝説に由来する」とあります。

日本でも平安時代には七夕に索餅を梶の葉に乗せてお供えしたとか。この「索餅」こそが、そうめんの原型といわれているものです。が、じつはその索餅、小麦粉と米粉を水で練って縄状にした食べ物と考えられていますが、麺だったとも菓子だったともいわれて、どんな食べ物なのか今もって謎なんだとか。

そうめんのほかには、スイカや瓜などの旬の果物や野菜も七夕の食卓に欠かせないものでした。

七夕の準備に大忙しの江戸時代の女性たち(『文月西陣の星祭』三代歌川豊国 画)
女性たちが七夕の準備に大忙し。画像右の女性は手に持ったホオズキを赤ちゃんに狙われています。中央の女性は短冊を飾り付け、画像左奥にはスイカを盛った大皿を運ぶ女性が見えます(『文月西陣の星祭』三代歌川豊国 画)

七夕が終わったらすべてを水に流す


江戸の空を覆うようにたなびいていた笹竹ですが、七夕当日の7月7日中、もしくは翌日にはきれいさっぱり片付けられました。今だと七夕を祝うのは7日の夜、というイメージが強いですが、昔はむしろ7月7日の夜には終了していたようです。

お供え物も笹竹も川や海に流し、穢(けがれ)を払い清めたのだとか。このあたりもお盆の風習と深く関わりがあります。なお、「今年は古式にのっとってみようかな」ということでご家庭の笹や飾りをざざっと川や海に流すのは、ごみ処理の問題もあるので止めておいたほうが無難。このあたり、みんな困ってるようで、たびたびQ&Aサイトでも質問が出ているようですね。

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大イベントとなった現代の七夕祭


現在、日本全国には七夕をお祝いする七夕祭が全国各地で行われていますが、もっとも有名なのは、毎年8月6~8日に開催される仙台七夕まつりでしょう。

仙台七夕まつり
仙台七夕まつり。画像引用元:wikipedia
仙台で七夕行事が盛んになったのは、ある有名な戦国大名が関係しているといわれています。

それは、


七夕を奨励したといわれる伊達政宗
独眼竜・伊達政宗

仙台藩の開祖だった伊達政宗が七夕を奨励し、七夕の和歌も8首残しています。

江戸時代中期以降には江戸と同じく仙台でも七夕を庶民も楽しむようになり、7月6日の夕方になると軒先に短冊などを飾った笹竹を立て星に願いをかけ、翌7日の朝に笹竹を川に流したそう。江戸と同じです。

今日のような大々的なイベントとなったのは1927年(昭和2年)のことで、商店街の有志が「不景気を吹き飛ばそう!」と町内の振興策として始めたのがはじまりなのだとか。

ちなみに、「仙台七夕まつり」とともに”日本三大七夕まつり”と呼ばれているのは、神奈川県平塚市の「湘南ひらつか七夕まつり」と愛知県安城市の「安城七夕まつり」ですが(諸説あり)、どちらもスタートしたのは1950年代と戦後のことです。

ほかにも、北海道で七夕の日に行われる「ローソクもらい」という子どもの行事もユニークな七夕まつりとして有名です。

子どもの頃から何気なくやっていた七夕のイベント、じつは結構奥が深かったんですね。今年の七夕は晴れますように。

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