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美女を侍らしての夕食。画像中央、男性客の前には鍋料理が見えます(『両国夕景一ツ目千金』三代歌川豊国 画)
江戸時代に誕生した現代に続く鍋料理
冬の食事の代表格といえばやっぱり鍋。寄せ鍋、ちゃんこ鍋、水炊き、モツ鍋、キムチ鍋などの定番ものから、カレー鍋やトマト鍋などの変わり種まで現代では鍋料理も多種多様。世界中を見てもこんなにバラエティ豊かな鍋料理がある国は珍しいんじゃないでしょうか。
さて、現代に続くさまざまな鍋料理が誕生したのは江戸時代からだといわれています。浮世絵にも鍋料理を楽しむ人々がたくさん描かれています。
江戸時代の鍋料理をご紹介するその前に、ちょっと鍋の歴史について。
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鍋の原型を遡ると、なんとビックリ縄文土器にたどり着きます。教科書で習った記憶のある方も多いでしょう。アレです。

縄文草創期のものとされる丸底深鉢形土器
「鍋」という言葉の語源は、「肴瓮(なへ)」だそう。「肴」は「さかな」で、「瓮」は「土製の甕(かめ)」のことです。まさに縄文土器。
平安時代中期につくられた日本初の漢和辞典『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」には、「なべ」を表す漢字として、土篇の「堝」と金篇の「鍋」が書かれています。つまり、平安時代には土製と金属製、素材の異なる鍋がすでにあったということです。
江戸時代以前にも鍋で煮炊きがされていたわけですが、いわゆる「鍋料理」とは違い、囲炉裏で鍋を煮炊きし、それを各人の器に取り分けて食べる、というスタイル。
このイメージですね↓

写真は囲炉裏で鍋のイメージです
そして、江戸時代中頃、鍋料理スタイルに大変革が訪れます。
それは、どこでも鍋。
これには場所固定の囲炉裏とは違い熱源持ち運びが必要なわけですが、それを可能にしたのが、

(『時世粧菊揃(いまようきくぞろい)』「つじうらをきく」歌川国芳 画)
七輪や火鉢の普及だったわけであります。
これにより、囲炉裏なんてとてもじゃないけど設置できないという江戸の裏長屋の狭い室内でも鍋料理OK!
料理屋の座敷でも鍋料理OK! となり鍋料理の普及と発展につながります。
私たちがイメージする「鍋料理」というと、大きな鍋にいろんな具材を入れてみんなでそれを囲んで食べる、という感じかと思います。が、江戸時代の鍋料理はちょっと違う。
こちらの浮世絵をご覧ください。

『東京美女ぞろひ』「柳橋きんし」二代歌川国貞 画
ひとり鍋。
コタツを背にした気だるげな美女がひとり酒の肴に鍋をつついています。
熱源は「長火鉢」というだいたいどこの家庭にもあった火鉢です。ちょっとした収納なんかもついていてとっても便利なんです。
もう1枚、こちらの浮世絵もご覧ください。

『青楼十二時 夜 子の刻』菊川英山 画
麗しい2人の遊女の前には火鉢にかけた鍋が見えます。これから2人で食べるんでしょうか。
さて、2枚の浮世絵に描かれた鍋。現代のご家庭にある一般的な鍋と比べて、ある違いがあります。それは、
鍋の底が浅く小さい。
そう、江戸時代の鍋料理の特徴のひとつは、こんな感じの底の浅い小さな鍋が使われていたことなんです。しかも、大人数でひとつの大鍋をつつくのではなく、小さい鍋を1〜2人で食べるスタイル。
台所で煮炊きした鍋料理に対し、食卓に熱源を運んで小さい鍋で調理する鍋料理は「小鍋立て(こなべたて)」といいました。これが変化して現代の鍋料理へとなっていくわけであります。
鍋と火鉢さえあれば簡単にでき、調理するそばから食べることができるので余分な食器も不要。手軽な鍋料理は大人気となりました。
さらに、江戸時代に醤油やみりんなどの調味料が発達したことも鍋料理の発展に拍車をかけました。
どじょう、マグロ、穴子からイノシシやシカまでーー江戸時代の鍋がおいしそう!
では、どんな鍋料理を江戸時代の人々は食べていたのか?
江戸時代初期の料理書『料理物語』には、ホタテなどの貝殻を鍋にして魚介類やきのこを煮込んだ鍋料理が登場します。

画像はイメージ。画像引用元:FOOD PRO あきた ー 秋田県「食」のネットワーク協議会 ー
現代でいうと、秋田県のご当地グルメに「かやき」というホタテの貝殻を鍋にした鍋料理があるのですが、それと一緒。そんなシャレた鍋料理が江戸時代にすでにあり、しかもかなり流行していたらしい。
また、江戸時代後期に書かれた豆腐レシピ集『豆腐百珍』には、現在の湯豆腐に似た「湯やっこ」という料理も登場しています。湯豆腐、あったまっていいよね。
ちなみに湯豆腐の発祥は京都の南禅寺門前にあった料理屋なんだとか。京都は現代でも豆腐料理で有名ですがそれは江戸時代も同じ。
が、『南総里見八犬伝』の作者として有名な曲亭馬琴は、京に行った際に有名豆腐料理店で豆腐料理を食べ「江戸の豆腐料理のほうがぜんぜんおいしい。店は江戸よりきれいだけどね」との感想を残しています。さすが江戸っ子の馬琴先生、気持ちいくらいに江戸びいき!
町人文化が花開いた文化・文政期(1804〜30年)頃になると、江戸で鍋料理の店が次々にオープンし、鍋料理のバリエーションはさらに豊かになります。
たとえば

イメージ画像。画像引用元:駒形どぜう
どじょう鍋。
現在でも大人気の“どぜう鍋”の超有名店「駒形どぜう」(東京都台東区)の創業は、1801年(享和元年)のこと。どじょうを丸ごと煮込んだ「丸鍋」は下町の名物グルメとして今も大人気です。
江戸時代後期の風俗百科事典『守貞謾稿』によれば、骨抜きしたどじょうに笹がきごぼうを加え卵でとじた「柳川鍋」が登場したのは天保年間(1830〜44年)の初め頃だそうで、横山同朋町(現・東京都中央区日本橋)にあった柳川屋が売り出して人気グルメになったんだとか。

これは『守貞謾稿』に描かれた柳川鍋の説明イラスト。一番上の浅い鍋にどじょう、その下の少し深い鍋には熱湯。これを合体させフタをしてお客に提供したそうですが、なにかというと、どじょうが冷めないためのアイデアなんですね。熱々うれしい。
なお、柳川鍋の料金は1人前で48文(約960円)くらいだったそうです(幕末)。
次も、江戸っ子大好きの鍋料理。

めちゃくちゃおいしそう。画像引用元:浅草一文
ねぎま鍋。
「ねぎま」というと鶏肉とネギを交互に串に刺した焼き鳥がメジャーですが、こちらは「ねぎ」と「まぐろ(トロ)」を使った鍋料理。「ねぎまぐろ」を略して、ねぎま。
マグロのトロ、と聞くと「なんてぜいたくな鍋! ぜんぜん庶民の味じゃない!」と思うかもしれませんが、江戸時代にトロはちっともぜいたくじゃない。むしろトロ食べない。
赤身の部分は“ヅケ”にしてすしネタとなりましたが、トロは脂が多すぎで不人気。そのためトロは肥料にされるかポイ捨てされていました。今ではとても考えられないことです。
でもある時、「トロもったいない。」といって、えらい人がネギと一緒に煮込んだ。すると、これがめちゃウマい。やがて「ねぎま鍋」は江戸っ子に大人気となっていったのです。ちなみに味は醤油ベースです。
ほかにも現在、茨城名物として知られる「あんこう鍋」も江戸時代から大人気。
「あんこうは口びるばかりのこる也」という川柳もあるように、捨てるところのないあんこうは元禄時代(1688〜1704年)にはすでに食べられていたようで、水戸黄門こと徳川光圀もあんこうを食べたんだとか。ヌルヌルするあんこうを吊るしてさばく「あんこうの吊るし切り」も江戸時代前期からあったそう。

江戸時代屈指のグルメ、黄門さまの肖像画(明治時代 作)。日本で最初にラーメンや餃子、チーズなどを食べたといわれている(諸説あり)
ほか、これも江戸時代から鍋として食べられていました。

『訓蒙図彙』より
スッポン。
漢字では「鼈」と書きます。
スッポンは江戸より京や大坂など上方で人気があり、スッポンの鍋は「まる鍋」と呼ばれています。「まる鍋」の老舗、京都の大市は元禄年間の創業で現在17代目なのだとか。
上方では重宝されたスッポンですが、江戸では調理法の残酷さからか「下品な食べ物」と思われていたらしい。でも、食べたらおいしかったらしい。
そのほか、ナマズ鍋、穴子鍋、白魚鍋などいろんな鍋料理がありました。
と、ここまで魚メインの鍋料理でしたが、肉を使った鍋料理も江戸時代からありました。
「江戸時代って肉食べちゃダメなんじゃなかったっけ?」と思う方も多いはず。たしかに、江戸時代、表向きは肉食タブーでしたが、じつは江戸時代後期には「薬喰い」と称してイノシシやシカなどの肉を食べる人もかなりいました。

(『名所江戸百景』「びくにはし雪中」歌川広重 画)
冬の江戸です。雪がすごいですねぇ。
さて、画像左に「山くじら」と書かれた看板があります。この「山くじら」とはイノシシのこと。「山くじら」という隠語を使って肉食をカモフラージュしていたわけです。
イノシシ肉を使った鍋を「牡丹鍋」と呼びますが、「牡丹」も江戸時代に誕生したイノシシの隠語です。
「薬喰いして人に嫌われ」と川柳にあるように、肉食に対する世間の風当たりは厳しかったようですが、やっぱり肉はおいしい。肉、食べたい。そこで人々は知恵を絞っていろんな隠語をつくりだし、こっそり肉料理を堪能したのです。
鹿肉を使った「紅葉鍋」も江戸時代からあり、ネギと鹿肉を味噌味のつゆで煮込みました。

こちらは雁(がん)鍋料理専門店で雁鍋を食べる人々。雁をはじめ、鴨や雉(きじ)、鶏などの鳥類も鍋の具材となりました。
池波正太郎の人気時代小説『鬼平犯科帳』の主人公・鬼平がなじみにしているのが軍鶏(しゃも)鍋屋「五鉄」。この「五鉄」のモデルとなったといわれるのが軍鶏鍋専門店「かど屋」で、幕末の文久2年(1862年)創業といいますから幕末の志士たちも軍鶏鍋を味わったかもしれません。
幕末のヒーロー、坂本龍馬が死の直前に盟友・中岡慎太郎と食べようとしていたのも軍鶏鍋です。

海援隊隊長・坂本龍馬。明治維新に大きな影響を与えた。

陸援隊隊長・中岡慎太郎。当時としては珍しい爽やか笑顔の写真
鍋料理の定番「すき焼き」と「おでん」が江戸時代にはまるで別物だった!?
薄切りの牛肉を甘辛い割下で調理した「すき焼き」は今や外国人にも人気の鍋料理の大定番ですよね。「スキヤキ」は世界共通語にまでなっています。

大人も子どもも大好き!
江戸時代にも「すき焼き」という料理はあったのですが、現代の「すき焼き」とは別物でした。どんな料理か、江戸時代後期の料理書にこうあります。
「使い古したスキを火の上に置き、そこに雁、鴨、鹿などの肉をのせ、色が変わったら食べごろ」(『料理談合集』より要約)
もはや鍋料理というより焼肉。
そもそも牛肉ですらない。
というか魚も焼いたらしい。
しかも使っている道具が鍋じゃなくてスキ。
スキってこれ。

『農具便利論』より
農具。
農具の「鋤」を使って焼くから「鋤焼き(スキヤキ)」なのです(諸説あり)。
明治時代、食肉文化が広まると文明開化の象徴ともいえる「牛鍋(ぎゅうなべ)」が大ブームとなります。

ザンギリ頭のハイカラ男子が牛鍋を堪能中(『安愚楽鍋(あぐらなべ)』より 仮名垣魯文 著)
この「牛鍋」は「スキヤキ」と同じものだと思いがちですが、これがまたかなり違う。
まず、牛肉のほかの具材はネギのみ。豆腐だとかしらたきだとか白菜だとかは一切なし。そして、味付けは割下ではなく味噌がほとんどだったとか。それはそれでおいしそうです。
余談ですが、鍋に入れる野菜といえば、白菜、ネギ、きのこ、大根、人参、ごぼうなんかがポピュラーですよね。しかし、江戸時代の鍋料理に白菜が入ることはありませんでした。なぜなら、白菜が食べられるようになったのは20世紀に入ってからだから。江戸時代の八百屋さんに白菜は並んでいなかったのです。
話をスキヤキに戻して。
関東では長らく「牛鍋」の名前が使われていましたが、関東大震災以降(諸説あり)、関西と同じく「スキヤキ」と呼ぶようになったそうな。
次の、冬の熱々料理はおでん。
鍋料理の人気ランキングでも常に上位にランクインする大人気鍋料理「おでん」ですが、江戸時代の「おでん」は今の「おでん」とは完全に違うものでした(また別物...)。
まず、「おでん」とは「田楽」という豆腐を串刺しにして味噌をつけた料理の略称に「お」という丁寧な言葉をつけた女房言葉です。「お田楽」が略され「おでん」ということ。
豆腐田楽は江戸時代の大人気豆腐料理で、江戸では赤味噌に砂糖、上方では白味噌に砂糖を加えたものを豆腐につけ、香ばしく焼きました。

大きな豆腐を切っている女性の横には串に刺した豆腐や味噌ダレの入った壺も(『豆腐田楽を作る美人』部分 歌川豊国 画)
江戸名物といわれるほど庶民に愛された豆腐田楽に新しいバリエーションが増えます。こんにゃくの田楽が仲間入りしたのです。そして、このこんにゃく田楽こそ江戸時代版「おでん」の正体なのです。
江戸時代中期の国語辞典『俚言集覧(りげんしゅうらん)』に「こんにゃくの田楽をおしなべておでんと呼ぶ」とあります。
こんにゃくの田楽は豆腐の田楽と違って火で焼かずに、串に刺したこんにゃくを湯で煮て味噌をつけたもの。どうやら、湯で煮た田楽=おでんということらしい。
つまり、江戸時代版「おでん」はこんな感じ。

画像引用元:門脇茶屋より
江戸時代後期の風俗百科事典『守貞謾稿』に「上燗オデン」なる振り売りが紹介されています。説明文によると「燗酒とこんにゃくの田楽を売る。江戸は芋の田楽も売る」とあります。
芋の田楽も、茹でた芋に味噌を塗ったもののようです。「おでん売り」というとおでんの屋台をイメージしちゃいますが、これまたぜんぜん違いますね。
現在の煮込みおでんの誕生に関しては、わからないことが多く、専門家の間でも意見が分かれており、その誕生時期は不明なんだとか。
「江戸時代にも現代のようなおでんがあった!」
とも、
「いやいや現代のようなおでんが誕生したのは明治時代以降だ!」
ともいわれています。今後のおでん研究に期待しましょう。
さぁ、鍋料理の次は、これも冬の味覚の王様、フグです。
これで死んだら本望? 不名誉? 命がけでも食べたい冬の王者・フグ
ちょっと奮発してリッチな冬グルメを楽しみたいなら、やっぱりフグでしょう。
日本人は大昔からフグ大好き。なんと縄文時代の貝塚からフグの骨が出土しているんだとか。つまり縄文人もフグ食べていたんです。
フグはおいしいけど、恐ろしいのはその猛毒。
意外なことにフグの毒はフグ自身でつくり出しているわけではなく、フグが食べるエサが持っている毒素がフグの体内で濃縮され猛毒になっているんだとか。フグの毒に関してはわかっていない部分も多く、縄文時代のフグが現代のフグと同じような猛毒を持っていたかもわからないそうです。
フグはおいしい。でもアタれば死ぬ。
危険と隣り合わせの美味を日本人はずっと食べてきました。が、ある時、時の天下人によってフグを食べることが禁止されます。
その人物とは

ぜんぜんサルっぽくない秀吉像。すごい強そう(『太平記英勇傳』「豊臣秀吉公」落合芳幾 画)
豊臣秀吉。
それは安土桃山時代。秀吉は朝鮮半島進出の野望を胸に、朝鮮出兵を断行します。
この時、出兵のために集まった兵たちの間で悲惨な事故が相次ぎます。
フグの毒に無知な兵たちが「おい、この魚、んうまいぞ!」とこぞってフグを食べまくったことで、次々と毒にアタり、死者が続出しました。
秀吉はこの事態に激怒。
「戦で命を落とすならよいが、魚を喰って命を落とすとはなんたること! もう、フグ食べるの禁止!!」と、フグ食を禁じたわけです。なお、このエピソードは有名なわりに根拠となる史料が不明だそうです。あしからず。
時は変わって江戸時代。
武家の間では相変わらずフグは食べることが禁じられていました。「主君のために捧げる命を、食欲のために失うのはけしからん」というわけです。
藩によってはかなり厳しい処罰も下されたそうです。フグで死んだら家禄を没収とか、お家断絶とか、フグを売買したら謹慎処分とか。重い...。
それでも庶民なんかは結構フグを食べたそう。もちろん命がけです。そこまでして食べたいフグの魔力、恐るべし。なお、刺身や鍋ではなく、フグ汁にして食べるのがポピュラーだったようです。
かの松尾芭蕉や小林一茶もフグを食べて一句詠んでいます。

品川宿の料理屋でしょうか。2階の座敷からは海が見えます(『五十三次の内 品川』三代歌川豊国 画)
こちらの浮世絵、画像右の魚屋が座敷で魚をさばいています。拡大してみましょう。

おー、立派なフグです。
現代では高級魚のフグですが、江戸時代には中毒死する人も多いので「下魚」とされ、値段も安かったんだそう。ちなみに品川でもフグが獲れ「品川フグ」と呼ばれたそうですが、味はマズかったとか……。
「鉄砲と あだ名をつけて こわがらせ」
と川柳にあるように、フグには「鉄砲」という異名がありました。その心は「当たれば死ぬ」から。
余談ですが、フグの刺身を「てっさ」、フグの鍋を「てっちり」なんていいますよね。これはそれぞれ「鉄砲の刺身」「鉄砲のちり鍋」の略語なんです。
「鉄砲」と呼ばれるほど恐ろしいフグを詠んだ川柳には物騒なものもたくさんあります。たとえばーー
「飲み仲間 一人死んだで 酔いがさめ」
「片棒を かつぐゆふべの 鰒(フグ)仲間」
どうやら、一緒にフグを堪能したお友だちがポックリ逝ってしまったようです。ナムナム。
長らくタブー食材だったフグが解禁されるきっかけとなったのは、ある時の権力者のひと声だったといわれています(諸説ありますが)。その人物とはこの人。

初代内閣総理大臣・伊藤博文。
フグ禁じたのも時の権力者なら、フグを解禁したのも時の権力者。
それはこんなエピソードです。
1888年(明治21年)、下関に赴いた伊藤博文はある旅館でフグの刺身を食べました。どうやら時化(シケ)でいい魚が獲れず、止むを得ず、ということで女将が出したらしい。周囲は「フグの刺身なんてとんでもない!」と反対したそうですが、伊藤博文はこれをパクリ。
そして言いました。「おい...めちゃくちゃうまいじゃないか! なぜにこれほどうまい魚を禁止する!?」。
調理をきちんとすればアタらないことを知った伊藤博文は、まず下関限定でフグを解禁。そして戦後、フグの調理に関する免許制度が各都道府県で整備され、全国各地どこででもフグを堪能できるようになったのです。おしまい。
さぁ、最後は冬のおやつ。ホカホカのアレです。
江戸っ子の冬スイーツは焼き芋で決まり!
寒い冬にはおやつもやっぱりあたたかいものが食べたいですよね。
さて、数百年前の江戸女子の大好物といえば「芝居、こんにゃく、芋、南瓜(かぼちゃ)」だったんだとか。いまとだいぶ違います。ここでいう「芋」こそサツマイモなのです。
ここでちょっとサツマイモの歴史をプレイバック。
日本にサツマイモがやってきたのは江戸時代初期のこと。南米原産とされるサツマイモはまず中国から琉球(現・沖縄県)に入り、そこから九州地方へ伝わりました。
“暴れん坊将軍”こと八代将軍・徳川吉宗は飢饉の際の非常食としてサツマイモに目をつけます。サツマイモはハードな環境でもよく育つ。
そして、「甘藷(かんしょ=サツマイモ)先生」で知られる学者の青木昆陽などの努力により関東をはじめ各地でサツマイモが栽培されるようになったのです。

幕府にサツマイモ栽培の試作を命じられ見事成功させた青木昆陽。昆陽の墓のある目黒不動尊では命日に「甘藷まつり」が開かれています
さて、江戸時代後期の寛政期(1789〜1801年)、江戸に「焼き芋」を売る店が登場します。
砂糖が高価だった時代、焼き芋の甘みは強烈。
甘くて、あったかくて、なにより美味しい焼き芋は女性を中心にたちまち大評判となり、焼き芋は冬のおやつの定番ポジションに上り詰めました。
焼き芋が大ヒットした要因がもうひとつあります。
それは値段の安さ。
江戸庶民の味として有名な蕎麦は1杯16文(約320円くらい)とそのリーズナブルさで市民権を得ましたが、焼き芋はさらに安く、なんと1本4文(約80円くらい)だったとか。1本食べたらお腹がふくれる焼き芋ですからこの値段は安い。
甘い、おいしい、安い、お腹いっぱいーーと4拍子そろった焼き芋を売る店はまたたく間に増え、秋が深まると江戸市中のあちこちに焼き芋屋が出現したそう。
おもしろいのが焼き芋屋の正体。
焼き芋専門店はほとんどなく、その正体は各町の出入り口に設けられた木戸の番人「番太郎」でした。

画像中央に見える木戸の右にあるのが木戸の番人小屋
番太郎がいる木戸の番人小屋は、画像中央。拡大してみると

番太郎が副業で売る草鞋などがたくさん並んでいます(『守貞謾稿』より)
番人小屋って書いてますね。
治安維持のために町ごとに設置された木戸を開け閉めしたり、火の用心をするのが木戸番小屋に詰める番太郎の仕事なのですが、町から出される給料はめちゃ安。
そのため番太郎は番人小屋で草鞋とか駄菓子といった日用品を売る内職を許されていました。
さながらコンビニ状態。
現代のコンビニがドーナツを扱うかのごとく、巷で人気の焼き芋を扱う番太郎が出現。その売れ行きが良好と見るや、ありゃいいなとあちこちの番人小屋でもマネして焼き芋を売るようになったわけであります。
さて、江戸女子のハートをわしづかみにした焼き芋ですが、現代人が知る焼き芋とは作り方がぜんぜん違いました(またか...)。

『小春十二月の内初雪』三代歌川豊国 画
こちらの浮世絵は12月の冬景色を描いたもの。画像左にいるのは焼き芋専門店のようです。かまどの奥には山盛りのサツマイモが入った籠もあります。こんなにいっぱいあっても売れたんでしょう。
赤々と火が燃えるかまどの上には木蓋が見えますが、そこで焼き芋を作りました。かまどに大きくて浅い平鍋を載せ、鍋にサツマイモを並べ木蓋をし蒸し焼きにするのが江戸の焼き芋だったんです。

川越市立博物館にある江戸時代の焼き芋屋の平鍋。これで焼き芋をつくりました
ちなみに、1本丸ごと焼くのは「まる焼き」、大きな芋をいくつかに切って焼くのは「切り焼き」。江戸っ子は豪快な「まる焼き」がお好みだったそう。

『東都歳時記』より
画像右中央に見えるのは焼き芋屋さん。かまどの下に敷かれたゴザの上にサツマイモがゴロゴロしています。
店の脇に「○焼」と書かれた看板があるのがわかるでしょうか?「○焼」とは「まる焼き」のこと、つまりサツマイモ1本を丸ごと焼くタイプの焼き芋屋さんのようです。
「○焼」のほか「八里半」という文字も看板に書かれていますが、これも焼き芋のこと。「栗(九里)にはやや及びませんが、焼き芋も甘くておいしいよ!」というシャレです。
やがて「栗よりうまい」ということで「九里(栗)+四里(より)うまい十三里」なるやや無理やり感のあるシャレが登場し、焼き芋=「十三里」となり「十三里」の看板を掲げる焼き芋屋が続々登場しました。

イノシシ肉レストラン「山くじら」の反対側に焼き芋屋がありますが、その看板には「○やき」とよく見ると「十三里」の文字が書かれているのがわかります。
また「十三里=焼き芋」となったのは、サツマイモの名産地・川越が江戸から13里の場所にあったから、という説もあります。
ちなみに、埼玉県川越市の「川越いも友の会」にひよって10月13日は「さつまいもの日」に制定されています。これも焼き芋が十三里と呼ばれていたから13日なんです。
余談ですが、「い〜しや〜きいもぉ〜」の呼び声で町を回るリヤカータイプの石焼き芋屋が登場したのは戦後と結構最近のことです。リヤカータイプはほとんど見かけませんが、軽トラタイプの石焼き芋屋は都内でも時折目にしますよね。あれ、ほんとおいしい。
江戸時代の冬グルメは形は変われど、今もしっかり冬の味覚として多くの人に愛されているようです。
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「ミニ氷河期だった江戸時代 庶民はどんな服装で冬の寒さをしのいだのか?」
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。