• 更新日:2019年2月4日
  • 公開日:2016年11月19日


気になる1等賞の金額はいくら?


神仏のご加護により、幸運にも当選した人にはいくらもらえたのか気になります。

時代や場所によって金額は異なりましたが、記録にある1等賞の最高金額は千両。1両を8万円と考えると、

約8,000万円

現代の宝くじは1等賞が前後賞合わせて10億円なのを考えると、う~ん……ちょっと微妙な金額……という感じもしなくはないですが、庶民からしたらものすごい夢のある金額です。

当たりの最高金額「一の富(いちのとみ)」とよばれ、だいたい100両から300両くらい(800万円から2,400万円くらい)が相場として多かったそう。

1等賞の「一の富」、2等賞の「二の富」、3等賞の「三の富」……と続き、最下位の末等には金2分(約4万円ほど)前後が当選金としてもらえました。

富くじの抽選会(『浪花福富舞臺図絵』)
熱気あふれる抽選会のようす(『浪花福富舞臺図絵』)
しかし、全額が当選者にもらえるわけではありませんでした。

当選金額のうち、約1割が興行元の寺社へ、約1割が富札を売る札屋へ、約1割が諸経費として差っ引かれ、当選者の手元には当選金額の7割くらいしか入りませんでした。

つまり、千両が当たったとしてももらえるのは約5,600万円。結構、シビアだったようです。

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3日1回はどこかで抽選会!?江戸時代後期に富くじブームのピーク到来


さまざまな工夫と高額当選金によりギャンブル性を高め、人々を夢中にさせた「富くじ」は、幕府が興行許可の規制を緩和したことにより、まず、江戸時代中期の明和年間(1764~72年)に第一次ブームを迎えます。

江戸でも多数の寺社が富くじ興行を行うようになりましたが、なかでも“富くじのメッカ”とされたのが、谷中の感応寺(のち天王寺)、目黒不動、湯島天神の3カ所で「江戸の三富」と呼ばれ大勢の人々でにぎわいました。

「江戸の三富」のひとつ、谷中の感応寺の富くじ興行(『東都歳時記』より「谷中天王寺富の図」)
「江戸の三富」のひとつ、谷中の感応寺の富くじ興行。ものすごい数の人々が押し寄せ抽選を見守っています(『東都歳時記』より「谷中天王寺富の図」)
しかし、その後、堅物老中・松平定信がぜいたくを禁じる「寛政の改革」を行うようになると、富くじ興行にも厳しい規制が課せられるように。

許可されたのは、江戸・京・大坂の寺社のみ。しかも、それまで毎月1回は行われていた富くじ興行も年3回のみと大幅に縮小されたのです。

これにより富くじブームは下火になりました。

ただ、時代は下って江戸時代後期の文化文政期(1804~30年)、財政難にあえぐ幕府は再び富くじ興行の規制を大きく緩和します。三都以外にも興行が許可され、富くじは第二次ブームを迎え、人気ぶりは最高潮に達しました。

最盛期には江戸市中だけで30カ所以上の寺社が興行を許可され、年間120回も富くじ興行が行われたとか。単純計算でも3日に1回は江戸のどこかで富くじ興行が行われていたことになりますから、まさに“富くじ狂騒曲”です。

庶民が熱狂した富くじは、落語や小説のネタにもなりました。

江戸時代後期に生まれたベストセラー小説『東海道中膝栗毛』の主人公コンビ、弥次さん&喜多さんも富くじを巡るドタバタを演じています。

『東海道中膝栗毛』(十返舎一九 作)
十返舎一九の代表作『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次喜多コンビは時代を超えた人気者
大坂を訪れた弥次さん&喜多さん、ある日、坐摩(ざま)神社の富くじを拾います。淡い期待を抱いて抽選日を待つと、なんと一等賞の100両が大当たり! 「前祝だ~!!」と遊郭で豪遊する2人ですが、じつは組違いで借金だけが残っちゃった……チャンチャン。

これはフィクションですが、実際にもこんな悲喜劇があったのかもしれませんね。

富くじの悲喜こもごもをネタにした落語もたくさんあります。初代三遊亭円朝の創作落語『富久(とみきゅう)』をはじめ、『御慶(ぎょけい)』や『宿屋の富』など、一等賞の千両を当てパニックになる人々のドタバタ落語は、大人気を博しました

しかし、笑ってばかりいられないのが富くじの現実。こんな川柳もありました。

「富札の ひきさいてある 首くくり」
「首くくり 富の札など 持っている」

あぁ、全財産を富くじにつぎ込んじゃったんでしょうか……。願いもむなしく外れくじとなった夢のかけらを持って自ら命を絶つ人々もいたようです。

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