富くじブームの終焉、そして現代の宝くじへ
江戸時代後期の川柳に
「世は豊か 江戸は残らず 富だらけ」
と詠まれたほど大ブームを巻き起こした富くじですが、「陰富(かげとみ)」と呼ばれたアンダーグラウンドの違法富くじの人気に押され次第にその人気は低迷していきます。
「陰富」というのは、富くじの当選番号を当てるギャンブルで、個人が勝手に富札を作り、安価でこれをこっそり売りさばき、当選番号を当てた人には8倍の賞金が払われました。
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「陰富」は手軽さと配当率のよさから公式の富くじをしのぐ人気を集めるようになっていきます。最初は長屋住人の“お慰み”だった「陰富」ですが、やがて武士階級にも波及、ついには御三家のひとつ水戸藩までもが財政難から逃れるために「陰富」に手を出し、これをネタに強請られる恐喝事件が起きたとも。
また、幕府が規制を緩和したことで富くじ興行を行う寺社が増えすぎ、富札が売れ残るように……。興行が赤字となっては意味がありません。
違法富くじの横行、風紀の乱れ、赤字の続出……などなど、こうした事態を受け、ついに、幕府は「天保の改革」のなかで富くじの全面禁止を決定します。今回は例外はなし、徹底的に禁止です。
ここに人々を熱狂させた富くじは終わりを告げました。
時代は変わり、明治時代に入っても富くじは新政府により厳しく禁じられました。
富くじ全面禁止からおよそ100年後の1945年、ある理由で富くじは復活します。
時代は昭和。
太平洋戦争末期、底をついた軍事費を調達するため政府が1枚10円の富くじ「勝札(かちふだ)」を販売したのです。
しかし、抽選日の直前に終戦を迎え、皮肉なことに「負札(まけふだ)」などと呼ばれることになりました。
おなじみの「宝くじ」という名称が初めて登場するのは戦後まもない1945年10月のことで、この時は政府が発行。その後、政府くじは廃止となり、都道府県・政令指定都市が発売元となる「自治宝くじ」へと変化して、現在へと続きます。
ジャンボ宝くじの発売日に淡い期待を胸に大勢の人が並ぶように、江戸時代の人々も一攫千金をくじに託していたんですね。時代は変われど1枚のくじに見る夢は同じようです。
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