さて、七福神つながりで。
うれしさ大爆発
こちらも七福神メンバーのひとり、恵比寿さま。恵比寿さまといえば、右手に釣竿を持ち、左脇に立派な鯛を抱え、“えびす顔”でニッコリしているのがスタンダードな姿。一方、仙厓和尚の恵比寿さまは、つりあげた大きな鯛を前に小躍りしちゃってます。画賛(絵に添えられた言葉)の「よろこべよろこべ」そのままです。
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で、釣りあげた鯛に向かってーー
つかまえた〜っ
恵比寿さま、鯛に向かってダイブ!まん丸な顔いっぱいの笑顔には喜びがあふれています。ナマズみたいな鯛の口からは「ぐえっ」という呻きが聞こえてきそう。ちなみに画賛は「今歳の仕合 是れて知れた」。
こちらも七福神。
みんな幸せにな〜れ
七福神の中心メンバー、大黒さま。右手に打ち出の小槌、左手に大きな袋を持つ姿でおなじみの福の神ですが、もともとは戦闘の神様なんだとか。仙厓和尚の大黒さまは戦闘とはほど遠いところにいます。さながら江戸版サンタクロースのようにも見えるこの大黒さま、みんなに幸せを運んでくれそうです。
では、ここで簡単に仙厓和尚について。
仙厓が生まれたのは江戸時代中期の1750年(寛延3年)、美濃国武儀(むぎ)郡にて生まれました(現在の岐阜県関市)。貧農の家に生まれた仙厓は、11歳の時に出家、青年時代は師について修行を重ね、師が亡くなると長い諸国行脚の旅に出ました。
その後、九州の博多に行くと40歳の時に日本最古の禅寺・聖福寺の住職となり、荒廃していた寺の修復や弟子の育成に力を注ぎました。
還暦を過ぎると住職の座を弟子に譲り、自らは聖福寺境内の「虚白院」で隠居生活に入り、40歳を過ぎてから本格的に始めた絵を描くことに没頭します。
もともと精密なタッチの絵を描いていた仙厓ですが、70歳を過ぎた頃に「厓画無法(がいがむほう)」つまり、「自分の絵にはルールはない」と宣言し、以後、自由でのびやか、軽妙洒脱な筆さばきで森羅万象を描きました。
気さくな仙厓は「博多の仙厓さん」と呼ばれ多くの人に慕われ、仙厓もまた求められるままに気前よくタダで禅画を描き与えました。現存する仙厓の作品は2,000点以上とも。笑いとユーモアを交え即妙で描かれた仙厓の禅画は、難しい禅の教えを人々の心に優しく語りかけ、今も多くの人を魅了しています。
仙厓はとても洒脱かつ博識な人物だったようで、他宗派のお坊さんや武士、町人から農家の子どもたちまでいろんな人が仙厓の庵に集まってきたそうです。
とはいえ、絶えず人がやってきては「絵を描いて〜」と頼むので、さすがの仙厓和尚も辟易したのかこんな狂歌を詠んでいます。
「うらめしや わが隠れ家は雪隠か 来る人ごとに 紙おいていく」
愚痴までユーモラス。
「雪隠」つまり「トイレ」といえばこんな絵もあります。
野グソしているところです。「人はこんそふな」という画賛が見えます。「誰も見てないし、やっちゃえ」という心境でしょうか。
話を戻して83歳のとき、仙厓は「ええい!わしゃ、もう描かんぞ!!」という決意を表明するためこんな絵も描いています。
ズバリ「絶筆碑」。
「墨染の 袖の湊に筆捨てて 書きにし愧(はじ)を 晒す白波」と書いてあります。しかし、やっぱり人のよい仙厓和尚。頼まれると断れず、結局、死ぬまでずっと絵を描いてみんなにあげていました。いい人だ。
仙厓が亡くなったのは88歳のとき。当時にあってはかなりご長寿だった仙厓は、生前、友人で画家の斎藤秋圃に自分の「涅槃図」を描いてもらっています。
木立に囲まれた寝台に横たわるのが仙厓、その周りには博多の友人たちが集まり、手前に並べられた仙厓遺愛の品々までも仙厓の死を悲しんでいるーーという夢を仙厓愛用の筆が見ているーーという、なんともユニークな構成の作品。
多趣味だった仙厓は、変わった石をコレクションしたり、九州各地の名所旧跡を訪ね歩いたり、博多の祭りを見物したり、といろんなことに興味を持ち楽しんでいたそうです。
これは太宰府天満宮の「うそ替え神事」を描いたもの。こういった風俗画も素朴ながら味わいがあってステキです。
さて、再び仙厓作品をどしどしご紹介していきましょう。