• 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2017年3月28日


時代を先取りした鷹山の災害対策&福祉政策


地場産業の盛り上げに力を注ぐ一方、鷹山が力を入れたのが災害対策と社会福祉政策。このあたりは時代を問わず社会の大問題です。

前述したように天明の大飢饉で米沢藩も大ダメージを受けました。そこで鷹山は「まさか!」の時に備えてさまざまな対策を行いました。

災害対策その1 長期プランの備蓄をしよう!

20年間で15万俵もの“非常食用”の籾(もみ)を備蓄することを目標。「どんな飢饉がやってきても絶対に助かる」という量の非常食をキープすることを目指したことに脱帽。

籾
籾とは脱穀する前のお米のことだよ!画像引用元:Wikipedia

災害対策その2 サバイバルマニュアルの作成&配布

飢饉で食糧難となったときに活躍する非常食レシピ集『かてもの』を作成。作成を提案したのは鷹山の右腕・莅戸義政さん。

1,575冊が藩内で配布され、その後の飢饉の際にも大活躍! ちなみに、第二次世界大戦下では米沢市が食糧難を解消するため『かてもの』を再発行したことも。

非常食レシピ集『かてもの』(上杉鷹山の右腕・莅戸義政が提案)

『かてもの』には野山で入手できる野草など80種類以上もの素材が食材として紹介され、レシピもわかりやすくとっても実用的。専門家である医師が実食していたり、役人自らが先んじて口にすることで食の安全を保証!ドングリやタンポポなど現代人からすると「!?」と思ってしまうようなものも代用食になりました。

こうした努力のおかげもあり天保の大飢饉の際には米沢藩の被害は最小限に抑えられたそう。

ここがスゴイよ鷹山公!

「豊かな日の間によくよくまさかの準備を怠らないように」という現代に通じるリスクマネジメントをしていた。

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次に社会福祉政策について。

これは本当に驚きなのですが、今から200年以上も前の米沢には「介護休暇制度」や「高齢者手当」などの社会福祉制度が既にあったのです。

社会福祉政策その1 現代の「介護休暇制度」に通じる「看病断(かんびょうことわり)」制度

父母や妻子が病気の際の休暇を許可。ちなみに江戸時代、親の介護や看病をするのは男性の仕事でした。

さらに、身寄りがいない場合や看病が困難な場合などには地域ぐるみで看病や介護をサポートする仕組みも考えられていたんだとか。

社会福祉政策その2 ご長寿さんにはプレゼント

長寿の老人を集めた「敬老の会」を催したり、ある年齢以上のものには手当がつくなどさまざまな敬老政策を行いました。

田家茶話六老之図(歌川国芳 画)
江戸時代の元気なご長寿さんたち(『田家茶話六老之図』歌川国芳 画)
ほかにも、貧困などの理由から乳児の命を意図的に奪う「間引き」という悪習の根絶や、政府公認の売春婦(公娼)の廃止にも鷹山は取り組んだりしました。

時代に先駆けた“やさしい社会づくり”に力を注いだ鷹山ですが、そこには自身の体験が大きく影響しています。

鷹山が19歳のとき、2つ年下の幸姫(よしひめ)を正室として迎えました。

しかし、幸姫には心身に障害があったそうで、彼女の成長は10歳ほどの幼女のままで止まっていたんだとか……。幸姫は30歳の若さで他界してしまうのですが、13年という結婚生活のなかで鷹山は幼女のような妻のために折り紙で鶴をつくってプレゼントしたり、一緒に人形遊びをしたりすることもあったそうです。

江戸時代の人形遊び(『四季の詠おさな遊』渓斎英泉 画)
人形遊びに興じる子どもたち。多忙な日々の合間に鷹山も幸姫とこんな風に遊んだのでしょうか(『四季の詠おさな遊』渓斎英泉 画)
しかも、藩主にとって子どもをなすことは重要課題だったのにも関わらず、鷹山は側室を持とうとしなかったとか。幸姫のことをとっても気づかっていたことがよくわかります。

最終的に重役たちに懇願され、お豊の方を側室として迎え2人の男児に恵まれるのですが、どちらの子どもも若くして他界、鷹山の直系の血は絶えてしまいました

また鷹山は実父と養父、2人の老父の介護も誠心誠意努めました

鷹山は江戸にいた実父・秋月種美(たねみつ)の介護のため米沢から江戸へ向かい、30日余り老父の世話をしました。残念ながら実父は他界してしまうのですが、その喪が明ける間もなく、今度は米沢から養父・上杉重定が病で倒れたという知らせが届きます。

急ぎ江戸から米沢へ帰った鷹山は、それから80日あまり身を粉にして養父の看病にあたりました。ちなみに重定は看病の甲斐あって元気になりました。

江戸と米沢、今なら新幹線で数時間の距離ですが江戸時代にはものすごく遠い。そこを往復して110日以上もの介護・看病を行った鷹山公。こうやって苦労した体験が時代に先駆けた介護休暇制度の制定につながったのでしょう。

ここがスゴイよ鷹山公!

心身ともに幼い妻のため、病に苦しむ2人の父のため骨身を惜しまず尽くした鷹山公。その経験を政策に反映し、“やさしい社会づくり”を目指した。

すべては領民のためにーー生涯を米沢藩の再生に捧げた鷹山公は、1822年4月2日(文政5年3月11日)の朝、眠るようにこの世を去りました。死因は過労と老衰だといいます。

そして鷹山の死の翌年、ついに米沢藩は藩財政を苦しめていた膨大な額の借金を完済したのです。

あまりに有名な鷹山公の言葉です。

なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり


武田信玄の言を参考にしたこの名言を、まさに体現した生涯でした。

こんな話があります。

鷹山の死から56年の月日が流れ、時代は江戸から明治に変わった1878年(明治11年)のこと。日本各地を旅していた英国人女性旅行家イザベラ・バードが米沢を訪れました。

イザベラ・バードの肖像画
イザベラ・バードが残した日本旅行の記録は、外国人から見た当時の日本を知ることができる貴重な資料
米沢の美しい農村風景に感激したイザベラ・バードはこう記しました。



「米沢はアジアのアルカディア(桃源郷)である」


鷹山が19歳で初めて国入りした時には荒廃しきっていた米沢の地は、鷹山の55年にわたる努力と家臣や領民たちの協力によって見事に再生を果たし、その後もその精神は受け継がれ米沢の地にしっかりと根を張っていたのです。

イザベラ・バードが感動した米沢盆地の田園風景
イザベラ・バードが感動した米沢盆地の田園風景。画像引用元:おきたまジェーピー

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