江戸時代の「仇討ち」といえば赤穂浪士47人の討ち入り。成功すれば名をあげる仇討ちですが、実現は難しく、一説にはその成功率は1%。そんなハードルの高い仇討ちを長い年月の末に成し遂げた兄弟がいました。
事件簿その3
仇を追い続けて41年!父の仇を追い続けた兄弟の執念
久米兄弟の仇討ち
文化14年(1817年)の12月、越後国新発田(しばた)藩にて藩士・久米弥五郎が同じく藩士の滝沢休右衛門に斬り殺されるという事件が起こりました。事件後、犯人の滝沢は逃亡、行方知れずに……。
一方、主を失った久米家は家禄は没収、藩からの援助でなんとか糊口をしのぐような状態でした。久米家再興のためには、仇討ちしかない――。そう思うものの、久米家7歳と5歳の兄弟しかいなかったのです。
月日はむなしく流れ兄弟も18歳と15歳になった頃、藩主から援助と激励を受け、兄弟と助っ人の叔父の3人は仇討ちの旅に出ましたが、これが苦難の始まりでした。
顔もわからない、居場所もわからない仇を探し出すあてどない仇討ちの旅は困難を極め、いたずらに時間だけが過ぎていき、3人も別行動をするようになっていました。
そんな折、もはや執念だけで仇を探す兄の幸太郎の耳に偶然にも次のような情報が入ります。
「仙台藩領内のお寺にいる黙照(もくしょう)という老僧が滝沢らしい」
早速、幸太郎は寺に行き黙照の顔を見に行きますが、肝心の仇である滝沢の顔を知らない……。そこで、仙台藩から新発田藩(今の新潟県新発田市)に戻り、滝沢の顔を知っている者に同行を願い、老僧の顔を確認してもらうと、その者は言いました。
滝沢に間違いない、と。
幸太郎の心ははやるが寺社での仇討ちはご法度のため、滝沢が外出するよう策を講じ、ついに、安政4年(1857年)の10月9日、仇敵・滝沢を討ち本懐を遂げました。
幸太郎47歳、仇の滝沢82歳。父の死から41年。
人生を仇討ちに捧げたといっても過言ではない幸太郎、その後の人生も苦労が多かったようで、仇討ちの成功で名をあげ家は再興したものの、仕事はうまくいかず、維新後に始めた事業も失敗に終わったそう……。
なんとも壮絶な人生です。ちなみに、久米兄弟の仇討ちは史上2番目に長い仇討ちで、最長記録は母の仇を討った「とませ」という女性の53年だそうです。
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鼠小僧に稲葉小僧、田舎小僧……などなど、江戸時代には「小僧」のつく有名盗賊がたくさん。そのなかには、恐れ多くも徳川家の家紋である「葵の御紋」を掲げて盗みに入る、その名も「葵小僧」という凶悪盗賊がいた――
事件簿その4
葵の御紋を掲げた盗人!? 凶悪盗賊、その名も葵小僧
葵小僧、獄門にかけられる
寛政3年(1791年)頃、江戸は板橋で、凶悪な押込強盗犯が逮捕されました。
盗賊の名は通称「葵小僧」。
徳川家の家紋である「葵の御紋」をつけた提灯を掲げて商家に押入り、盗みを働いたことがその名の由来。しかも、この葵小僧、押込先では必ず女性を強姦するという凶悪な手口で江戸中を荒らしまわりました。
あまりの凶悪性から捕縛後わずか約10日という異例のスピードで獄門にかけられました。ちなみに、葵小僧を捕まえたのは“鬼平”で有名な火付盗賊改方の長谷川宣以(のぶため)です。