江戸の庶民文化が爛熟期を迎えた時代。11代将軍、徳川家斉(いえなり)のもと権勢を誇った大奥は乱れに乱れ、ついには大スキャンダルが発覚したのです。
事件簿その13
破戒坊主と大奥女中たちの大スキャンダル
感応寺事件
江戸時代後期の文化文政期、将軍として君臨した徳川家斉といえば、とにかく子だくさんの絶倫将軍として有名です。側室は16人以上、子どもはなんと50人以上といいますからスゴイ。
で、側室がこれほど多ければ当然、大奥の権力は増し、やりたい放題、風紀も乱れます。そんな時に起きたのがこの「感応寺事件」です。
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感応寺はもともと廃寺だったのですが、家斉の愛妾・お美代の方の“おねだり”により再興が叶い、雑司ヶ谷に広大な土地を与えられると壮麗な伽藍を建築しました。
ちなみに、お美代の方の実父は日蓮宗の僧で、この父娘、家斉に取り入って大奥でいろいろやるわけです(詳細は割愛)。
さて、将軍家をはじめ諸大名からも絶大な信仰を受けるようになった感応寺、特に熱心に参詣に訪れるようになったのが大奥女中たちでした。普段は外出禁止・禁欲生活を強いられている彼女たちですが、代参の時には外出が許され貴重な息抜きタイムとなっていました。
ということで感応寺にもひっきりなしに大奥女中たちが参詣に訪れたのですが、じつは彼女たちにはある秘密の目的がありました。それは寺にいる美僧たちと密会すること。
感応寺では訪れる大奥女中たちを夢中にさせ、さらなる権力を手に入れるため若い美僧を揃えて接待役にし淫らな功徳を施していたのであります。
なんという山田風太郎。
秘密の密会はさぞかし甘美なものだったようで次第にエスカレート、ついには寺に寄進するという名目で運び込む長持(ながもち/収納ボックスのようなもの)のなかに自ら入り忍び込む女中も現れるまでになりました。
しかし、ある時、寺と大奥女中との関係を不審に思った寺社奉行が大奥から寺に運ばれる長持を総チェックさせたところ、なんと中身が大奥女中だったからビックリ。ここに感応寺と大奥女中たちとの淫らな関係は露見したのです。
感応寺の後ろ盾となっていた家斉が死去すると、老中・水野忠邦は待っていましたとばかりに感応寺の破却を命じ、再建からわずか5年あまりで感応寺は更地にされてしまいました。
11代将軍・家斉のぜいたく政治の象徴ともいえる感応寺は、老中・水野忠邦による「天保の改革」の手始めとして徹底的に破壊されたともいえます。
ちなみに、感応寺事件と似たような寺と大奥とのスキャンダルに「延命院事件」「智泉院事件」というのがあるのですが、いかに当時の大奥や幕政が乱れていたかわかりますね。
今回は、江戸時代の事件簿を紹介しました。