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江戸時代の怪奇事件・珍事件・猟奇事件
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享保14年(1729年)の4月、ひとりの山伏が品川の鈴ヶ森刑場にて処刑されました。山伏は処刑されるまで一貫してこう主張していました。「私は8代将軍・吉宗の落胤である」
事件簿その1
“暴れん坊将軍”徳川吉宗に隠し子発覚!?
歌舞伎にもなった謎多き「天一坊事件」

「天一坊事件」は歌舞伎にもなるなど人々の注目を集めました。(『徳川天一坊 尾上菊五郎』歌川豊周 画)
山伏が処刑された前年、幕府の役人に次のような問い合わせがありました。
「南品川宿のお寺にいる天一坊っていう山伏が、そのうち大名になるからって言って浪人をいっぱい集めていてなんか物騒。あと、その人、吉宗さまの子どもって言ってるよ。ちょっと調べてみて」
これには役人も度肝を抜かれます。すぐさまこの件は老中、さらには徳川吉宗本人の耳にも入りました。で、当の吉宗の反応はというと
「身に覚え?
う~ん……
あるかも」。
将軍になる前の紀州藩主時代の吉宗さま、なかなか奔放だったようです。こうなると本物のご落胤の可能性も出てくるわけで、慎重な調査が進められました。結果はといいますと――
「天一坊がご落胤というのは真っ赤なウソ」
ただし、紀州の武家の子であることはたしかだったようです。では、なぜご落胤と称したのか?
その理由は、天一坊の亡き母が繰り返し語っていた「お前は高貴な血を引いている。“吉”の字を大切にしなさい」という言葉から、「本当の父親は吉宗に違いない」と思い込むようになったから。
天一坊は純粋に「自分は将軍の子である」と信じていたのかもしれませんが、浪人を集めることは大罪。処刑されてしまったというのは、なんだかちょっとかわいそうな気もしますね。もしかしたら本当に吉宗の隠し子だった可能性もなきにしもあらずですから。
ちなみに、この「天一坊事件」は“大岡越前”こと名奉行・大岡忠相(ただすけ)の裁判を集めた講談『大岡政談』で有名ですが、実際には大岡越前は事件にノータッチでした。
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江戸時代中期、ある驚きの詐欺が横行します。犯人はいずれ劣らぬ美女ばかり。なのに、その詐欺手口からついた名前は、なんと「小便組」。
事件簿その2
仰天の手口で大金を騙し取る美女たち
江戸を席巻した「小便組」という詐欺

いつの時代も男性は美女に弱いもの?(喜多川歌麿 画)
江戸時代、妾(めかけ)、今でいうところの愛人は一種の職業であり、大名や大手の商家の主には妾がいることも珍しくありませんでした。
そこに目をつけたのが「小便組」。
まず、妾を所望するお金持ちに美女を紹介します。話がまとまると前金として大金を支払わせ契約完了。妾となった美女は男性に貢がせるだけ貢がせると頃合を見計らって別れを切り出させます。
そのやり方がすごい。一緒に寝ている時に毎晩のように寝小便をするのです。
もちろん“わざと”。いくら美しい妾でもこれは勘弁してほしい。ただ、女は「わざとじゃない、病なの、ワタシ……」などと泣きながら言うものだから、男性も頭ごなしに叱ることができない。
で、結局、暇を出すことになるんですが、病気が原因なら契約違反だと言って返金請求もできず泣き寝入り。
まんまと大金をせしめた美女は、次なるターゲットへ……というのが「小便組」による詐欺のやり口です。かなりユニークな詐欺ですが、手軽に大金が手に入るとあって「小便組」はたいそう流行してしまい、あちらこちらでお金持ちが寝小便被害にあったそう。
詐欺はいけませんが、最初にこのアイデアを考えたひとの才能は認めざるをえません。
江戸時代の「仇討ち」といえば赤穂浪士47人の討ち入り。成功すれば名をあげる仇討ちですが、実現は難しく、一説にはその成功率は1%。そんなハードルの高い仇討ちを長い年月の末に成し遂げた兄弟がいました。
事件簿その3
仇を追い続けて41年!父の仇を追い続けた兄弟の執念
久米兄弟の仇討ち

幸太郎が滝沢を討ち果たした宮城県石巻市の祝田浜には碑があります。画像引用元:石巻観光協会
文化14年(1817年)の12月、越後国新発田(しばた)藩にて藩士・久米弥五郎が同じく藩士の滝沢休右衛門に斬り殺されるという事件が起こりました。事件後、犯人の滝沢は逃亡、行方知れずに……。
一方、主を失った久米家は家禄は没収、藩からの援助でなんとか糊口をしのぐような状態でした。久米家再興のためには、仇討ちしかない――。そう思うものの、久米家7歳と5歳の兄弟しかいなかったのです。
月日はむなしく流れ兄弟も18歳と15歳になった頃、藩主から援助と激励を受け、兄弟と助っ人の叔父の3人は仇討ちの旅に出ましたが、これが苦難の始まりでした。
顔もわからない、居場所もわからない仇を探し出すあてどない仇討ちの旅は困難を極め、いたずらに時間だけが過ぎていき、3人も別行動をするようになっていました。
そんな折、もはや執念だけで仇を探す兄の幸太郎の耳に偶然にも次のような情報が入ります。
「仙台藩領内のお寺にいる黙照(もくしょう)という老僧が滝沢らしい」
早速、幸太郎は寺に行き黙照の顔を見に行きますが、肝心の仇である滝沢の顔を知らない……。そこで、仙台藩から新発田藩(今の新潟県新発田市)に戻り、滝沢の顔を知っている者に同行を願い、老僧の顔を確認してもらうと、その者は言いました。
滝沢に間違いない、と。
幸太郎の心ははやるが寺社での仇討ちはご法度のため、滝沢が外出するよう策を講じ、ついに、安政4年(1857年)の10月9日、仇敵・滝沢を討ち本懐を遂げました。
幸太郎47歳、仇の滝沢82歳。父の死から41年。
人生を仇討ちに捧げたといっても過言ではない幸太郎、その後の人生も苦労が多かったようで、仇討ちの成功で名をあげ家は再興したものの、仕事はうまくいかず、維新後に始めた事業も失敗に終わったそう……。
なんとも壮絶な人生です。ちなみに、久米兄弟の仇討ちは史上2番目に長い仇討ちで、最長記録は母の仇を討った「とませ」という女性の53年だそうです。
鼠小僧に稲葉小僧、田舎小僧……などなど、江戸時代には「小僧」のつく有名盗賊がたくさん。そのなかには、恐れ多くも徳川家の家紋である「葵の御紋」を掲げて盗みに入る、その名も「葵小僧」という凶悪盗賊がいた――
事件簿その4
葵の御紋を掲げた盗人!? 凶悪盗賊、その名も葵小僧
葵小僧、獄門にかけられる

寛政3年(1791年)頃、江戸は板橋で、凶悪な押込強盗犯が逮捕されました。
盗賊の名は通称「葵小僧」。
徳川家の家紋である「葵の御紋」をつけた提灯を掲げて商家に押入り、盗みを働いたことがその名の由来。しかも、この葵小僧、押込先では必ず女性を強姦するという凶悪な手口で江戸中を荒らしまわりました。
あまりの凶悪性から捕縛後わずか約10日という異例のスピードで獄門にかけられました。ちなみに、葵小僧を捕まえたのは“鬼平”で有名な火付盗賊改方の長谷川宣以(のぶため)です。

※イメージ
火の魔力というものはたしかにあるようで、現代と同じく江戸時代にも連続放火魔がいました。時は幕末、江戸市中の寺で不審火が相次ぎました。ある火事の時、寺の小僧が見かけた不審な人物を捕らえてみるとなんとその正体は……。
事件簿その5
連続放火魔の正体は武士!?
火事にとりつかれた男「ぼや金」

燃え盛る炎と対峙するのは「い組」の町火消し。「ぼや金」こと小櫛はこうした火事に胸を高鳴らせたのでしょう(『月百姿』「烟中月」月岡芳年 画)
これは江戸時代末期の事件や噂話を集めた『藤岡屋日記』に書かれた話。
ペリーが黒船で来航する前年の嘉永4年(1852年)の春、江戸は牛込から四谷にかけて寺で不審火が相次ぐという事件がありました。
それからしばらくして同年の夏、またもや四谷の宗福寺という寺で不審火がありました。この時、寺の小僧が不審者を捕らえましたが、その正体はなんと武士。しかも、江戸の治安を守る同心(注 後述)というから驚いた。
男の名は小櫛金之助(35)。すぐさま奉行所にしょっぴかれ取調べを受けましたが、その供述から小櫛の連続放火魔としての犯行と、火事に対する異常性が浮き彫りになりました。
小櫛はもともと火事が大好きだったらしく、ちょっとしたボヤが起きるだけで「火事だ!火事だ!」と大騒ぎするので、ついたあだ名が「ぼや金」。そんな小櫛が連続放火という大罪を犯すようになったきっかけもやはり火事。
嘉永4年(1852年)の春に四谷で大火事が起きた時、火事現場の近くにあった親戚の家に駆けつけ大いに働き、後日、謝礼をもらいました。火事の高揚、感謝、満足感……。ますます火事にぞっこんになった小櫛は、火事が起きるとすぐに現場に駆けつけ、誰よりも熱心に働きました。ここまでは問題ない。
しかし、火事が多かった江戸時代とはいえ、そうそう都合よく起きるはずもない。ぼや金は火事がない日がしばらく続くと、居ても立ってもいられなくなる。そしてついに自ら火を付けたのでした。
小櫛が放火したのは寺ばかり5件。しかも昼間の犯行。それはなぜかというと、「夜が怖い」とかで昼間にしか放火ができず、そうなると昼間にあまり人がいない寺がうってつけだったから。
さて、火事にとりつかれた放火魔・小櫛の末路はといいますと……。江戸時代、放火は大罪。5件もの放火を犯した小櫛は獄門にかけられることが決定しましたが、処刑の前に牢屋で獄死したとか。
※同心……同心とは、町奉行の配下で江戸市中の警察、司法、行政の任務にあたる与力(よりき)の下にあってその任務を補佐する下級武士。時代劇ドラマ『必殺仕事人』シリーズの主人公・中村主水の役職も同心。
江戸時代後期の歌舞伎界に、8代目・市川団十郎という人気、実力ともに比類なきトップスターがいました。しかし、彼は突如みずから命を絶ってしまい、江戸中に衝撃をあたえました。
事件簿その6
当代きっての歌舞伎役者、人気絶頂のなか謎の死
トップスター8代目市川団十郎、自殺

8代目市川団十郎の死絵のひとつ。女性ファンらが嘆き悲しんでいます
江戸時代後期、江戸生まれの人気役者が歌舞伎界に君臨していました。
その名は、8代目市川団十郎。
初舞台を踏んだのは、なんと生後1ヶ月。わずか10歳にして8代目市川団十郎を襲名したといいますから、よほど才能があったんでしょう。ちょっと面長のイケメンで、上品ながら色気があり、愛嬌があるのに嫌味がない。
さらに、セリフ回しが巧みだというんだから、人気が出ないはずはありません。ぜいたくを禁じる天保の改革で大ダメージを受けた歌舞伎界の人気を復活させたのは、8代目市川団十郎のおかげとまでいわれるほどの人気を誇りました。
しかも、性格までよくて誰からも愛されたという非の打ち所のない人物でした。まさに順風満帆――と思われたのですが……。嘉永7年(1854年)7月、32歳の8代目団十郎、突如自ら命を絶ちました。大坂で舞台に立っていた父・7代目団十郎を訪ねて大坂にやって来ていた時のことでした。
当代一の人気役者の突然の死は世間に大きな衝撃を与えました。当時、人気役者が亡くなると訃報と追善をかねて「死絵(しにえ)」という浮世絵が刷られたのですが、8代目団十郎の死絵は異例ともいえる200種類以上が発売されたといいます。今なら連日ワイドショーやネットニュースで大騒ぎ、という感じでしょうか。
なお、自殺の理由については諸説語られていますが、今もって真相は謎です。
この世で結ばれないのなら、せめてあの世で――。相思相愛の男女がワケあって結ばれず、永久の愛を誓って共に自ら命を絶つ「心中」。数ある心中事件のなかには、遊女との愛に狂い4,000石を棒に振った旗本もいました。
事件簿その7
4,000石をとるか、遊女との愛をとるか
旗本・藤原外記と遊女・綾絹、心中事件

大正11年(1922年)に上演された『箕輪心中』の舞台写真。写真右が2代目市川左團次(さだんじ)が演じる藤枝外記
江戸時代後期、藤枝外記(げき/本名は教行)という4,000石の大身旗本がいました。
19歳の妻との間に3男1女をもうけ、幸せそのものに見えました。しかし、外記は吉原の遊女・綾絹(綾衣、琴浦とも)といつしか深く愛し合うように……。
ある時、外記は、綾絹が金持ちの商人に身請けされるという話を耳にします。愛する綾絹がほかの男の手に渡ってしまうなんて耐えられない――。切羽詰った外記は、どういう手段をつかったのか脱走不可能な吉原から綾絹をひそかに連れ出すと、手に手を取って逃走しました。
しかし、すぐ追っ手に見つかり、絶望した2人は心中という道を選びました。外記27歳、綾絹19歳。
藤枝家では当初、外記の死を隠そうとしましたがあっけなくバレて、家は改易、4,000石は没収されてしまったのですから、残された若い奥さんや子どもたちは悲惨です。ですが、この心中事件は江戸でも大きな話題となり、“悲恋”としてもてはやされました。
「君と寝ようか 五千石取ろか なんの五千石 君と寝よ」
なんて端唄が流行したほどです。ちなみに、この心中事件はのちに岡本綺堂が『箕輪心中』という小説にし、歌舞伎化もされたことで、後世に語り継がれるようになります。
江戸時代に爆発的に数を増やし、庶民の生活に密着した存在だった質屋。ちょっとお金が必要になったり、不要なものを質に入れたり……。そんな誰もが利用する質屋を舞台に恐ろしい事件が起こりました。
事件簿その8
武士が百両のカタに持ってきたものに仰天!
生首持参で恐喝未遂事件

葛飾北斎が描いた生首の絵。事件のイメージとして。こんなものを質草に持ってこられたら失神間違いなし
これも江戸時代末期の事件や噂話を集めた『藤岡屋日記』に書かれた話。
時は幕末、1855年(安政2)の春。時刻は夜も更けた午後8時頃のこと。江戸は浅草、花川戸の榊屋という質屋にひとりの男がやってきました。身なりは脇差だけではあったが刀を差していることからどうやら武士らしい。
質屋に入った男は応対に出てきた番頭にこう言いました。「百両の金を貸してくれ。質草はここに持参しておる」
そして、持っていた風呂敷包みをほどいたのですが……出てきたものを見た瞬間、質屋の番頭は腰を抜かします。
なんと、男が質草に持ってきたのは真っ赤な血がドクドクと流れ出る女の生首だったのです。
これは怖い、怖すぎる。しかし、この番頭、しっかり者だったようで、冷静さを取り戻すと「かしこまりました。ただ、大金なのでご用意するまでちょっとお待ちください」と言い残し、店の奥へ引っ込みました。
そして、不審な武士を取り押さえるため身支度を整え、六尺棒を手に取ると、店先で待っている武士に殴りかかったのです。不意をつかれた武士はアタフタ逃げ出そうとしましたが、逃がすまいと番頭は「火事だ!火事だ!」と大声で叫びました。
騒ぎを聞きつけ近所の人も集まってき、観念した武士はほうほうのていで逃走しました。
さて、武士が質草に置いていったあの生首。あとで調べてみると本物の生首ではなく、非常によくできたニセ生首だったそう。なかから血が流れ出す仕掛けまで施されていたというのだからたいしたもんです。それにしても、勇敢な番頭に比べ、これは武士が情けない。
江戸時代、徳川家支配のシンボルとしてその威容を誇った江戸城に、恐れ多くも盗みに入った強盗コンビがいた。
事件簿その9
前代未聞、大胆不敵! 江戸城から盗みだしたのは4,000両
江戸城本丸の御金蔵を破った強盗コンビ

河竹黙阿弥による歌舞伎『四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)』は、事件を題材にした演目で、登場人物も実名(「千代田城噂白浪」歌川国海 画)
それは幕末、1855年(安政2)の初春のことでした。歴史に残る2人の名は藤岡藤十郎、下野国(しもつけのくに/現・栃木県)の無宿人・富蔵。
彼ら2人が、日本のトップセキュリティを誇った江戸城の御金蔵にどうやって忍び込んだのかは現代になってもわかっていません。ペリー来航などもあり幕府も浮き足だっていた時期ですが、盗まれた幕府側もとにかく信じがたい出来事だったでしょう。
鮮やかに大金を盗んだこの大泥棒コンビ。幕府の大捜査網をあざわらうかのように逃げ続けます。しかし、ついに1857年に逮捕されると、藤十郎と富蔵は小塚原で磔(はりつけ)に処せられました。それは逃亡から2年後のことでした。
天下の江戸城から大金が盗まれるという歴史的な大事件は当然ながら一大センセーションとなり、歌舞伎の題材にもなったのです。
江戸から明治に時代が変わって間もない時のこと。ひとりの美女が斬首刑となり、その首がさらされました。のちに小説や映画にもなった美貌の犯罪者はどのような罪を犯した罪とは…
事件簿その10
年下の愛人のため邪魔な夫を毒殺
“毒婦”と呼ばれた美人すぎる殺人犯、原田きぬ

きぬの事件を小説化した『夜嵐阿衣花廼仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)』の表紙画(歌川芳虎 画)
“毒婦・夜嵐おきぬ”として小説や映画の主人公となった実在の美女がいました。
その名は原田きぬ。
江戸時代後期の弘化年間(1844~47)頃に生まれたといわれますが詳細は不明。どうやらあまり恵まれた家庭ではなかったようで、若い頃に江戸へ出て芸妓となりました。
きぬは持ち前の美貌から売れっ子となり、やがて大久保佐渡守という大名に見初められ側室となると、世継ぎを産みました。
絵に描いたような玉の輿!しかし、幸せも長く続かず夫である佐渡守が若くして死去、未亡人となったきぬは半ば強制的に仏門に入ることに。
が、美しくまだ若いきぬを男性も放ってはおかず、日本橋に店を持つ呉服屋のモテ男と恋愛関係になったあと、小林金平という裕福な金貸しの愛人となりました。
欲しいものはなんでも与えられる生活を手に入れたきぬでしたが、心は満たされなかったのか、嵐璃鶴(あらしりかく)という年下イケメンの歌舞伎役者にのめり込むように……。
そして、愛しい璃鶴との結婚を望むようになったきぬは夫の殺害を決意、ついに、殺鼠剤(さっそざい)で夫の金平を毒殺してしまったのです。逮捕されたきぬに告げられたのは斬首。その時、哀れにもきぬは妊娠しており、刑は出産を待って執行されました。
ちなみに不倫相手の歌舞伎役者はどうなったかといいますと、不義密通の罪で懲役3年に処せられたものの、その後、事件のネームバリューもあってか人気役者となったとか。なんだかやるせないですねぇ。
時は江戸時代中期の1737年(元文2)、舞台は、大坂の風呂屋。ある中年薩摩藩士による惨劇は、その凄惨さゆえに歌舞伎や人形浄瑠璃の演目となり大ヒットすることになりました。
事件簿その11
痴情のもつれか、はたまた……
薩摩藩士による遊女ら5人殺害事件

事件をもとにした歌舞伎『五大力恋緘』は大ヒットし、上方歌舞伎の有名作となりました。(『踊形容外題づくし 江戸砂子慶曽我 五大力恋緘 第二番目三幕目 仲町粂本の場 笹野三五兵衛 げいしや小万 勝間源五兵衛』歌川国貞 画)
大坂の曽根崎新地にあった風呂屋「桜風呂」で働く髪洗女の菊野は春もひさぐ遊女。22歳の菊野に惚れこみなじみとなっていた客のひとりに、薩摩藩の大坂屋敷詰めの薩摩藩士・早田八右衛門(44歳)という男がいました。
事件が起きたのは1737年(元文2)の夏の夜明け前。店に来ていた早田八右衛門が、想いを寄せる菊野をはじめ店の主人夫婦、下女2人の計5人を惨殺したのです。
当時の供述調書によれば、菊野は首の皮1枚を残して一刀のもとに斬り伏せられていたとか。ほかの4人はメッタ刺し。殺された2人の下女はまだ17歳と12歳だったというから哀れです。巻き添えだったと思われます。
同時間帯に店の2階にいたほかの客によると、階下で何者かが聞きなれぬ訛(なまり)言葉で叫んでおり、尋常ならざる物音がしたそうです。
早田を凶行にかりたてたものはなにか?その動機ですが、痴情のもつれとも精神錯乱だと、酒席でのイザコザとも伝えられていますが、定かではありません。
現代でこんな事件が起きたら連日ニュースで取り上げられそうですが、当時もかなり衝撃的だったようで、事件後、人形浄瑠璃『置土産今織上布(おきみやげいまおりじょうふ)』をはじめ、人形浄瑠璃『国言詢音頭(くにことばくどきおんど)』、歌舞伎『五人切五十年廻(ごにんぎりごじゅうねんかい)』『薩摩節五人切子(さつまぶしごにんきりこ)』『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』などに劇化されました。
殺害シーンは詳細な供述が残されているので、かなり凄惨な演出がされ、それが怖いもの見たさの観客に大ウケしたそうです。
艶やかな黒髪は江戸時代の美人の必須条件。そんな“女の命”ともいえる髪の毛を無残にも切り落とす珍事件が多発。はたして犯人の正体は?
事件簿その12
犯人は人間か……それとも妖怪!?
女性の髪を切り落とす珍事件

江戸時代の妖怪絵巻『百怪図巻』に描かれた「かみきり」(佐脇嵩之 画)。くちばしのような口とバルタン星人のような両手を持ち、傍には切り落とした黒髪が
本人が気づかないうちに髪の毛をバッサリ切り落とされる……。そんな奇妙で恐ろしい事件が江戸時代には結構あったそうです。
古いところでは元禄時代(1688~1704)のはじめ頃、伊勢国の松阪(現・三重県松阪市)にて夜道を歩く男女の髪が元結(もとゆい)からバッサリ切られるという珍事件が多発したそう(説話集『諸国里人談』より)。
当時の夜道ですから今とは比べものにならない真っ暗闇だったとは思いますが、それにしても本人が気づかないというのが不思議です。
江戸時代を代表する文人・大田南畝(なんぼ)も随筆『半月閑話』で髪切り事件の流行について記しています。ほかにも髪切り事件について記録した随筆がたくさんあるので、長期間にわたって同様の事件が起きていたと思われます。
さて、このなんとも奇妙な事件、一体、誰がなんのためにやっているのか?
髪切り犯として人間が逮捕されたこともありましたが、「かつら」の素材を求めたかつら屋の犯行とも、愉快犯だったともいわれます。
しかし、“正体不明”という記録も多く、犯人の正体についてはキツネだとも、「髪切虫」という虫だとも、はたまた妖怪「かみきり」だとも……。命まで取られることはなかったにしても、女性にとっては非常に恐ろしい事件でした。
江戸の庶民文化が爛熟期を迎えた時代。11代将軍、徳川家斉(いえなり)のもと権勢を誇った大奥は乱れに乱れ、ついには大スキャンダルが発覚したのです。
事件簿その13
破戒坊主と大奥女中たちの大スキャンダル
感応寺事件

“オットセイ将軍”とあだ名された家斉。50年という長きにわたり将軍として君臨し、政治の腐敗を招きました
江戸時代後期の文化文政期、将軍として君臨した徳川家斉といえば、とにかく子だくさんの絶倫将軍として有名です。側室は16人以上、子どもはなんと50人以上といいますからスゴイ。
で、側室がこれほど多ければ当然、大奥の権力は増し、やりたい放題、風紀も乱れます。そんな時に起きたのがこの「感応寺事件」です。
感応寺はもともと廃寺だったのですが、家斉の愛妾・お美代の方の“おねだり”により再興が叶い、雑司ヶ谷に広大な土地を与えられると壮麗な伽藍を建築しました。
ちなみに、お美代の方の実父は日蓮宗の僧で、この父娘、家斉に取り入って大奥でいろいろやるわけです(詳細は割愛)。
さて、将軍家をはじめ諸大名からも絶大な信仰を受けるようになった感応寺、特に熱心に参詣に訪れるようになったのが大奥女中たちでした。普段は外出禁止・禁欲生活を強いられている彼女たちですが、代参の時には外出が許され貴重な息抜きタイムとなっていました。
ということで感応寺にもひっきりなしに大奥女中たちが参詣に訪れたのですが、じつは彼女たちにはある秘密の目的がありました。それは寺にいる美僧たちと密会すること。
感応寺では訪れる大奥女中たちを夢中にさせ、さらなる権力を手に入れるため若い美僧を揃えて接待役にし淫らな功徳を施していたのであります。
なんという山田風太郎。
秘密の密会はさぞかし甘美なものだったようで次第にエスカレート、ついには寺に寄進するという名目で運び込む長持(ながもち/収納ボックスのようなもの)のなかに自ら入り忍び込む女中も現れるまでになりました。
しかし、ある時、寺と大奥女中との関係を不審に思った寺社奉行が大奥から寺に運ばれる長持を総チェックさせたところ、なんと中身が大奥女中だったからビックリ。ここに感応寺と大奥女中たちとの淫らな関係は露見したのです。
感応寺の後ろ盾となっていた家斉が死去すると、老中・水野忠邦は待っていましたとばかりに感応寺の破却を命じ、再建からわずか5年あまりで感応寺は更地にされてしまいました。
11代将軍・家斉のぜいたく政治の象徴ともいえる感応寺は、老中・水野忠邦による「天保の改革」の手始めとして徹底的に破壊されたともいえます。
ちなみに、感応寺事件と似たような寺と大奥とのスキャンダルに「延命院事件」「智泉院事件」というのがあるのですが、いかに当時の大奥や幕政が乱れていたかわかりますね。
今回は、江戸時代の事件簿を紹介しました。
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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。