• 更新日:2023年1月1日
  • 公開日:2016年12月30日


伝統行事と思っていたら意外と歴史が浅かった正月イベントあれこれ


初詣とか年賀状とかおせち料理。伝統行事と思われているこれらのお正月イベントは江戸時代にはありませんでした。ちょっと意外。


まず、初詣

普段は神社仏閣とは無縁の人も、お正月には初詣に行ったりするほど外せないイベントとなっています。神社仏閣に参拝して1年の無病息災を祈願する初詣、なんとなくめちゃくちゃ昔からある行事のような気がしますが、正月行事として初詣が一般化したのは明治中期から大正時代にかけてなんだとか(諸説あり)。マジか……。

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江戸時代にもお正月に神社仏閣に参拝する行事はありました。住んでいる場所からその年の恵方(年神様がいる方角)にあたる社寺に参拝する「恵方詣り」というのがそれなのですが、恵方は年によって変わるので毎年参拝する社寺も変わりました。ほかにも、氏神さまにもお参りしました。

恵方詣りに向かう男性(『春曙恵方詣』部分 三代歌川豊国 画)
晴れ着で初詣もとい恵方詣りに向かう男性。縁起物がたくさんぶら下がった飾り物を担いでいます(『春曙恵方詣』部分 三代歌川豊国 画)
「恵方詣り」はやがて恵方に関係のない「初詣」にポジションを奪われ廃れてしまいました。そのあたりには、どうやら鉄道の発達と関係があるとかないとか。


次はおせち料理

こちらもお正月には欠かせないイメージ。今ではデパートやスーパーなどで購入する人も多いのではないでしょうか。おせち料理といったらこんな感じ。

おせち料理

三段のお重に、黒豆や田作り、数の子などのお正月らしいメニューがぎっしり。近年では、洋風おせちや中華風おせちなんてのも。

しかし、こういったスタイルのおせちが一般化したのは、なんと戦後のことなんだとか。デパートが見た目にも美しい三段重のおせちを売り出したことの影響らしい。むむむ…。

ここで、ちょっとおせち料理の歴史について。

もともと「おせち料理」とは

奈良時代、季節の節目(節句)に宮中で行われた「節会(せちえ)」という宴会で供された料理「御節供(おせちく)」のことで、それを略したものといわれています。節句の祝膳はすべて「おせち料理」だったんですが、節句のなかでもお正月は重要とされたため、やがて「おせち料理=お正月の祝膳」となったそう。

江戸時代、現代人がイメージするようなおせち料理はありませんでしたが、ユニークなお正月の祝い膳がありました。それは「食積(くいつみ)」(関西では「蓬莱(ほうらい)」)と呼ばれるもので、年神様へのお供えとして飾るだけで食べません

江戸時代後期のお正月風景

これは江戸時代後期のお正月風景。盃を持っているのは当時の人気役者です。画像左に見えるのが「食積」です。

拡大するとこんな感じ。

食積(くいつみ、江戸時代のお正月の祝い膳)

三方の中央におめでたい松竹梅や裏白、ゆずり葉、昆布などをセットし、その周りに伊勢海老、橙(だいだい)、勝栗、梅干し、炒り米などがのっています。

江戸時代初期には、家族で食べたり、お客さんが来るとつまみながらおしゃべりに花を咲かせたりしたそうです。しかし、「食ひつみに隠居の指をまよわせる」と川柳にもあるように固いものばかりということもあり、やがて形式的な祝い膳となり、“見るだけ”の食積は明治時代になると姿を消してしまいました

江戸時代にはこの食積のほか、食べる用の祝い膳も用意されました。煮物などを重箱に詰めたのがそれで、これが現在のおせち料理の原型といわれています。先ほどの画像、食積の手前に重詰めの祝い膳が見えます。重詰めのおせちは今では3段重がスタンダードですが、本来は4段重だったんですね。おせち料理の大定番メニュー、黒豆・田作・数の子などは江戸時代から定番メニューだったようです。


お次はお年玉

お年玉といえば、子どもたちの正月最大の楽しみ。近年ではものすごい金額をもらう子もいるようです。が、この「子どもがお金をもらう」というお年玉スタイルが確立したのは昭和30年代の高度経済成長期以降のことなんだとか。めちゃくちゃ最近だぞ。

お年玉の風習の起源については諸説あり不明ですが、江戸時代には庶民にも行われていたそう。今ではお年玉でもらうものといえば「お金」が相場ですが、もともとは「お餅」

1年の幸せを運んでくれる年神さまにお供えされていた餅のお下がりを家長が家族みんなに配ったのが、本来のお年玉なんだそう。「お年玉」の語源については、「年の賜物」が「としだま」になった説や、年神さまの魂つまり「年魂(としだま)」が宿ったお下がり説などがあります。

また、江戸時代、町人たちはお年玉として鶴や亀、富士山、松竹梅などおめでたいデザインの扇を贈り合う習慣がありました。“エコ都市”江戸らしいのが、正月の中旬を過ぎるとお年玉でやりとりされた扇を家々から買い集める「払扇箱買い」という商売をする人が登場したこと。買い集められた扇は来年、またお年玉として活躍したわけです。こんなとこにもリサイクル。

払扇箱買い(絵本『あづま手ぶり』より)
扇や扇が入っていた箱を買い集めた「払扇箱買い」(絵本『あづま手ぶり』より)
親戚の子どもなどに「お年玉ちょーだーい」とおねだりされたら、「古式にのっとるね」といってお餅や扇をプレゼントするのもいいかもしれません(ただし、関係は悪化する見込み)。


次は、年賀状

旧年の感謝と新年のあいさつをハガキに込めた年賀状。最近では手軽にメールやLINEで済ませることも多いですよね。年賀状がいつからあるというと、その歴史は意外と浅く、ハガキによる年賀状が普及したのは明治時代中頃なんだとか。1873年(明治6年)に郵便ハガキが発行されたんですが、それが大きかった。「ハガキって超ベンリ!」ってなったんですね。

ちなみに大正時代の年賀状が、これ。

大正時代の年賀状
画像引用元:年賀状レトロ美術館
レトロな感じが超おしゃれ。

それ以前にも書状による年始のあいさつはありました。

さらに遡ると、直接相手のところへ行って年始のあいさつをすること自体は平安時代にはすでに貴族の間で慣習になっていたそう。

やがて、直接年始のあいさつに行けない遠方の親族や知人などに書状で年始のあいさつを送るようになります。これが年賀状のルーツなわけであります。

書状による年始のあいさつは、貴族から武家社会へ、さらに庶民へと広まり、江戸時代に飛脚が庶民でも利用できるようになるとたくさんの年始のあいさつ状がやりとりされるようになりました。

現在の年賀状だと「あけましておめでとう! 今年もよろしくね♥」みたいなノリですが、江戸時代のある武家の年始のあいさつ状に書かれたあいさつを見ると「新年之御吉慶目出度申納候(しんねんのごきっけいめでたくもうしおさめそうろう)」と書かれていたりします。さすが武家、堅苦しいぞ。

ちなみに現代では年内に年賀状を出し、元日に相手宅に届く、というのがマナーのようになっていますが、そもそもは年始のあいさつなわけですから正月を迎えてから書いて送っていました。だから年賀状を出すのが遅れても本来の意味をくどくど説明すれば大丈夫。(なのか?)

それにしても何も考えず「伝統的イベント」と思っていたものが、意外と歴史が浅かったり、あり方が大きく変わっていたりするというのはビックリします。

余談が長くなりすぎましたが、江戸時代のお正月に話を戻します。次は子どもの遊びについて。

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