参勤交代は自然発生的なものだった!?
江戸時代に諸大名に義務付けられた参勤交代ですが、その原型は意外な人物にあるといわれます。
豊臣秀吉。
織田信長亡き後、天下の覇権を握った豊臣秀吉は、支配下に入った大名を上洛させ大坂城まであいさつに来させただけでなく、大坂城や伏見城の周辺に屋敷を与え大名の妻子たちを住まわせました。これ大枠は参勤交代と同じ。
しかも、これに従わない場合は“反抗分子”とみなされ、討伐されちゃったというからたいへんです。
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関東の覇者として君臨していた北条氏を秀吉が大軍をもって滅亡させた「小田原平定」も、北条氏が頑として上洛することを拒んだことが原因です。あのとき頭下げておけば……。
さて、天下の覇権が秀吉から徳川家康に移り、家康が江戸に幕府を開く。
すると諸大名は「私、マジで敵じゃありませんので!」という意思アピールのため、“自発的に”江戸へやってきました。
みんながやるものだから、「え、ウソウソ、うちもやらんと」と、時勢に疎い大名もこのムーブメントに乗り遅れまいと後に続く。
差別化が難しくなってきたら「いや、私なんて、誰に言われたわけじゃないけど妻子を江戸に住まわせちゃうんで」とか、やり始める大名も現れる。この行き過ぎスタイルのはしりはこの人。
築城名人として有名な藤堂高虎。
一方、家康や2代将軍・秀忠も、まだ徳川幕府の権力も絶対的ではなかったので、大名たちが江戸に来ると、「ヤアヤアよく来ましたね〜」なんて気を遣って、江戸の入り口である東海道の品川や中山道の板橋までわざわざ迎えに行きおもてなしをしたんだとか。
こんな感じでなんとなく自然発生した参勤交代ですが、この空気感を一変させた人物がこの方。
「生まれながらの将軍であるぞ」と諸大名に宣言したことで有名、3代将軍・徳川家光。
3代目で幕府の権力がほぼ固まったこともあるとはいえ、家光は「君たち、江戸へ来ることはマストね」と、参勤交代を『武家諸法度』により制度化し、非情な「命令」として諸大名にくだします。
当時の大名たちの本音はうかがい知れませんが、あくまで自発的にやってただけなので、「あ、そういうノリになるんだ…」と、かなり戸惑ったのではないでしょうか。
原則は1年おき、でも国がものすごく遠い場合は?
参勤交代が義務付けられたとはいえ、一度に全国から江戸に大勢の人が集結したらさすがの江戸もパンクします。なので、奇数年に江戸へ来るグループ・偶数年に江戸へ来るグループに大別され、それぞれが交代で江戸にやってきました。
基本的には「1年おきに江戸へ来て1年を江戸で過ごす」が原則でしたが、例外もありました。
たとえば、めちゃくちゃ江戸から遠い場合。
今の北海道にあたる蝦夷地に領地があった松前藩なんかは、あまりに遠いので幕府から「君のとこは5年に1回江戸へ来ればいいよ。あと、江戸滞在も4ヶ月でいいよ」と例外措置を受けていました。
逆にめちゃくちゃ江戸から近い場合は悲惨。
関東周辺の諸大名の多くは「君たちは……近いよね(ニッコリ」と半年ごとに江戸と国元の往復を命じられました。これはヒドイ。
国元に帰ることなくずーっと江戸で暮らすこと(定府/じょうふ)が義務付けられている場合もありました。徳川御三家のひとつ水戸徳川家や、老中や若年寄など幕府の要職についている家などがそれです。