【画像】江戸時代の歯磨きは意外に進んでいた。300年前の歯ブラシ・歯磨き粉も紹介

  • 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2016年1月12日

現代人にとっては当たり前の歯磨き習慣。じつは江戸時代の人々も毎朝せっせと歯を磨いていました。当時の歯ブラシや歯磨き粉、そして世界最古の入れ歯など、300年前の驚きの歯の事情をまとめました。

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江戸時代に広まった歯磨きの習慣


江戸時代の歯磨き(『風俗三十二相』の「めがさめさう」より、月岡芳年 画)
(『風俗三十二相』「めがさめさう」月岡芳年
こちらは江戸時代の浮世絵。

寝起きで乱れ髪の美しい女性が、寝ぼけ眼で歯を磨いています。歯磨きする女性は浮世絵にしばしば描かれました。

日本に歯磨きの習慣が伝わったのは意外と古く、1,300~1,400年ぐらい前(飛鳥時代にさかのぼります。

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世界的にみると歯磨きのルーツは紀元前5000年のバビロニア人にあるといわれており、彼らは食前に指の先に麻の繊維を巻いて歯の掃除をしていたそうです。古代ギリシャ人はさらに、うがい、歯肉マッサージまで行っていたとか。

一方、歯ブラシのルーツは、お釈迦さまが読経の前に歯を磨く時に使っていた「歯木(しもく/しぼく)」と呼ばれる菩提樹の小枝といわれます。

歯木(古代の歯ブラシ)

歯木とはこんなもの。現在でもインドやパキスタンなどで使用されているそう。ちなみに、英語で「歯の~」を意味する「デンタル」は、歯木を意味する「デンタカーシュッタ」が語源とされています。

そして、飛鳥時代、仏教とともに「歯を磨く」という思想と歯木が日本にももたらされたといいます。はじめは宗教儀式の一環として僧侶や貴族、武士など限られた人々だけが行っていた歯磨きですが、江戸時代になると庶民の間でも習慣化していきました。

舌のケアまでできる江戸の歯ブラシ「房楊枝」


江戸時代以前、庶民のデンタルケアといえば、食後にお茶やお湯で口をすすぐ、もしくは指に塩をつけてこする程度だったそうです。ちなみに、食生活が現代とはぜんぜん違いますし繊維質の多い食品をよく食べたので想像するより虫歯もなかったとか。で、江戸時代になると歯磨きは毎朝の日課として習慣化します。

江戸時代の歯ブラシはこちら。

房楊枝(江戸時代の歯ブラシ)
その名も「房楊枝(ふさようじ)」。

これは柳や灌木(かんぼく)などの枝を18cmほどの長さに細く削り、煮て柔らかくしたのち、片方の先端を木槌で叩いてブラシ状にしたものです。

柳の房楊枝は女性用、灌木の房楊枝は男性用で、房が折れたりしてもその部分を切って、また先端を叩いて房状にして使ったそうです。

しかし、これを毎日使い捨てするのが「粋」とされたとか。ケチケチするのは江戸っ子の美意識に反したんでしょうか。

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房楊枝での歯磨き方法は次の通り。まず、ブラシ状になっている部分で歯を磨きます。次に反対側の尖っている方で歯間の汚れを取り除きます。

仕上げに柄のカーブした部分で舌をこすり、舌苔(ぜったい)の掃除をします。舌の掃除が江戸時代から行われていたことにびっくり。

江戸の人々はかなり口臭にも気を遣ったそうです。

舌の掃除をする江戸時代の女性(『当世三十二相』の「世事がよさ相」より、歌川国貞 画)
(『当世三十二相』「世事がよさ相」歌川国貞
舌の掃除をするおかみさん。手に持っているのは嗽(うがい)茶碗。大きな丼ですね~。

舌の掃除をする江戸時代の女性

拡大すると、汚れた舌を掃除していることがわかります。

舌の掃除をしている浮世絵(『東海道五十三対』の「石部」より、歌川国芳 画)
(『東海道五十三対』「石部」歌川国芳
もう1枚、舌のお掃除浮世絵。

やっぱり大きな嗽茶碗持っています。舌の掃除については、1813年(文化10)に刊行された美容ガイド『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』にも、朝の化粧の心得として歯磨きとともに推奨されています。

多機能な房楊枝ですが、唯一、欠点が……。

それは、歯の裏側が磨きにくかったこと。

そりゃそうか。なにせ毛先までまっすぐですからね。それでも房楊枝は明治時代に入っても長く人々に使われ続けました。

歯いたみ・歯みがき(小林清親 画)

明治広重」ともいわれた明治時代の浮世絵師・小林清親も房楊枝で歯磨きをする人を描いています。右の女性は歯痛にもだえています。

ちなみに、「歯ブラシ」という名称が初めて商品名として使われたのは大正時代。1914年(大正3年)に小林富次郎商店(創業時のライオン社)が発売した「萬歳歯刷子」です。その後、ナイロン製の毛の歯ブラシが登場し、以降、「歯ブラシ」が普及し、今に続きます。

日本初の国産歯ブラシ「萬歳歯刷子」
初の国産歯ブラシとなった「萬歳歯刷子」。東京歯科医学専門学校(東京歯科大学の前身)と共同開発で誕生しました


その数なんと100種!バラエティ豊かな江戸の歯磨き粉



歯ブラシの話しの次は、やはり歯磨き粉。

江戸時代にもちゃんと歯磨き粉がありました。商品としての歯磨き粉が始めて登場したのは江戸時代初期の1625年のこと。

江戸の商人・丁字屋喜左衛門(ちょうじやきざえもん)が作った「丁字屋歯磨」「大明香薬」が記念すべき日本の歯磨き粉第1号とされています。

400年前の商品キャッチコピーは


「歯を白くする」
「口の悪しきにおいを去る」


うん、いまと変わらない。やっぱり歯の白さは重要だったようです。

そして以後、江戸時代中期まで長く歯磨き粉として使われていたものは「みがき砂」というものです。

これは砂を精製したもので、なかでも房総地方で採取された「房州砂(ぼうしゅうずな)」は最良とされました。

歯磨き粉の主流はこうした砂や塩でしたが、これに丁子(ちょうじ、いわゆるクローブ)やハッカなどの香料を加えたものもよく使われました。現在の歯磨き粉と比較しても汚れの落ち方に遜色がないとか。

やがて歯磨き粉も多様化し、“暴れん坊将軍”こと八代将軍・徳川吉宗の治世である享保期(1716~36)には、江戸は本郷にあった「かねやす」という店が「乳香散(にゅうこうさん)」という香料の乳香を配合した歯磨き粉を発売したところ、爆発的大ヒット!

ちなみに「かねやす」は現在も雑貨・洋品店として本郷にて営業中です。

これ以降、多種多様な歯磨き粉が売りに出されるようになり、江戸時代後期の文化・文政期(1804~30)にはその数、100種類にもなったとも。今の歯磨き粉よりバラエティ豊かですね。

江戸時代の紅入り歯磨き粉(『浮世四十八手』の「夜をふかして朝寝の手」より、溪斎英泉 画)
(『浮世四十八手』「夜をふかして朝寝の手」溪斎英泉
手前の女性が手に持っているのは房楊枝と「紅入り歯磨き粉」。紅が入った歯磨き粉は若い女性に人気があったようで、何軒かの店で売られており、幕末まであったそう。

意外な人気者・歯磨き粉売り。気になるお値段は?



歯磨き粉のなかには、江戸時代を代表する鬼才・平賀源内が広告文を書いたものもありました。

その名は「嗽石香(そうせきこう)」。

これは房州砂をベースにした歯磨き粉で、値段は1箱20袋入り72文(約1440円)。ちょっとお得な詰め替え用もありました。

こうしたバラエティ豊かな歯磨き粉は、化粧品などを売る小間物屋で買えました。のち歯磨き粉専門店も登場しましたが、ユニークな歯磨き粉売りもいました。

歯磨き粉「梅勢散」を売る歯磨き粉売り(『百眼の米吉』より、三代目歌川豊国 画)
(『百眼の米吉』三代目歌川豊国
歯磨き粉「梅勢散」を売る歯磨き粉売りの「百眼米吉(ひゃくまなこのよねきち)」。さまざまな表情の目が描かれた「眼鬘(めかつら)」という仮面をつけ、人々の笑いを誘って歯磨き粉を売りました。お芝居にも登場するほど人気者。

歯磨き粉などを販売する香具師・松井源水(『近世職人絵尽』より)
(『近世職人絵尽』より)
昭和まで続いた大道芸人、香具師(やし)の名門・松井源水は、浅草を本拠地に曲独楽や居合い抜きなどの芸を見せ、歯磨き粉などを販売しました。

なお、気になる歯磨き粉の値段は1袋6~8文(約120~160円)で、1袋で1~2ヶ月は使えたそうです。

明治になると欧米から歯磨き粉が輸入されるようになり、1888年(明治21)には日本初の練り歯磨き粉「福原衛生歯磨石鹸」が福原資生堂(今の資生堂)から発売されました。

福原衛生歯磨石鹸(日本初の練り歯磨き粉)

記念すべき日本初となる練り歯磨き粉「福原衛生歯磨石鹸」。陶製の容器に入っています。当時の一般的な歯磨き粉の10倍ととっても高価なものでした。

世界最古の入れ歯はなんと日本製



歯のケアに気をつけてはいても虫歯にはなるもの。そして、最終的に入れ歯のお世話にならなければ……なんてことも。

日本での入れ歯の歴史は意外や意外とっても古く、なんと弥生時代の遺跡から石製の義歯が発見されています。

現存する世界最古の入れ歯もなんと日本製!

戦国時代の1538年(天文7)に74歳で亡くなった紀伊国(現・和歌山県)の願成寺(がんじょうじ)の尼僧・仏姫の入れ歯で、すべて木でできた入れ歯、「木床義歯(もくしょうぎし)」と呼ばれるものです。安土・桃山時代には仏師が副業で入れ歯を作っていたとか。

江戸時代の入れ歯

江戸時代のものと考えられている入れ歯。

歯茎は木製で、歯は蝋石でできています。ちなみに入れ歯を作るのは医師ではなく職人で「口中入歯師」と呼ばれていました。

今ではスーパーやドラックストアにずらりとデンタルケア商品が並んでいますが、江戸時代にもすでにさまざまなデンタルケアグッズがあったなんて驚きです。

歯磨き習慣といい、今に続く習慣がほんとにたくさん江戸時代にルーツがあるんですね。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。