• 更新日:2017年8月27日
  • 公開日:2016年3月17日


意外な場所が離婚調停所も兼ねた!


江戸時代の離婚は、双方の親、仲人などの介入や調整による「内済離婚」つまり「協議離婚」が一般的だったといわれます。

しかし、話し合いが決裂し離婚が不成立になった場合、女性は強硬手段として“夫の手に負えない場所”へ避難することがありました。

その避難場所を寺が担うこともあり、こう呼ばれていました。


「駆け込み寺」


別名「縁切寺」。三行半とともに、現代にも言葉が残っています。

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駆け込み寺(縁切寺)でとくに有名だったのは、徳川幕府公認だった、鎌倉の東慶寺(とうけいじ)と群馬県伊勢崎市にある満徳寺(まんとくじ)。

江戸時代前期には東慶寺や満徳寺以外の尼寺も同じような働きをしたとか。また、関所や代官所、武家屋敷に駆け込むこともあったそうです。

東慶寺の山門は男子禁制の寺の結界でもあった
東慶寺の山門は男子禁制の寺の結界でもあったんだとか
さて、駆け込み寺へ駆け込んだ女性は、ここで足かけ3年の修行をし夫に離婚を承諾させました。なんでも「3年も別居していれば夫婦関係は破綻している」という社会通念があったんだとか。

時代によって違いはありますが、縁切寺は離婚調停所としての役割もありました。寺に夫を呼び出し、妻と和解させ復縁させることもあったし、協議離婚に持ち込むこともあったそう。

東慶寺の山門は男子禁制の寺の結界でもあった
東慶寺に残る離縁状。「私の勝手で離縁します。今後どこへ再婚しても異存ありません」とあります

また、「お前の妻はどうしても離婚したいというので、こちらの寺で預かっている。離縁状を書いて出しなさい」と、寺から役人を夫の家に派遣し半ば強制的に三行半を書かせることもありました。

それでも「どうしても離婚したくない!」と夫がねばった時は、「寺法を犯した“ならず者”として牢にぶちこむぞ!」と脅されたんだとか。ここまで言われて離婚に応じない男性はほとんどいなかったそうです。

ちなみに、寺に駆け込んだ女性は、形式的にちょっとだけ髪を切ることはあっても、頭を丸めて尼になることはなかったといわれます。

また、縁切寺に滞在するにはお金もかかり、寺にいる間は掃除や洗濯など仕事をこなさねばならなかったんだとか。どうしても離婚したい女性には苦ではなかったかもしれません。

余談ですが、大泉洋さん主演で駆け込み寺をテーマにした映画「駆込み女と駆出し男」2015年5月に公開されますね。

熟年離婚など離婚が増えているといわれる現代ですが、江戸時代の離婚率は現代より高かったといわれています。その裏には再婚のしやすさ、イメージとは異なる女性の立場なんかがあったようです。

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