江戸の事件・出来事
1703年3月20日
赤穂浪士、討ち入りの罪により切腹する
切腹場所はお預かりの大名屋敷。切腹の後、赤穂浪士の亡骸は主君・浅野内匠頭が眠る泉岳寺に埋葬された。なお、切腹と同日に、吉良家の跡取りである吉良義周にも幕府から処分が命じられた(信濃高島藩主・諏訪安芸守忠虎にお預け)。
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深く関わっている人物/人物
あの出来事の中心にいた人物たち
前原伊助
まえはらいすけ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。伊助は通称で、名は宗房(むねふさ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、家督を継ぐと浅野家の江戸詰め家臣として仕えた。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、伊助は江戸におり、その後、江戸急進派として独自の行動をとった。財政に明るかった伊助は、「米屋五兵衛」と称して吉良邸近くの本所相生町に店を開き、吉良方の動向を探った。さらに行商人に扮し吉良邸の長屋に入って内部偵察も行っている。また、漢学にも通じていた伊助は、亡き主君・長矩の刃傷事件から討ち入りまでの経緯を偵察の合間をぬって漢文体で書き『赤城盟伝』としてまとめた(義士・神崎与五郎が注を書く... 続きを読む
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岡林杢之助
おかばやしもくのすけ
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の重臣。杢之助は通称で、名は直之(なおゆき)。浅野家家臣団のなかで大石家に次ぐ名家の出身でありながら討ち入りに参加せず、不忠臣のそしりを受けた。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、杢之助は家老に次ぐ組頭という重職にあり、事件後、家老・大野九郎兵衛とともに開城恭順を主張し、篭城を主張する筆頭家老・大石内蔵助らと対立した。その後、大野九郎兵衛は逐電したが、杢之助は藩内に残り残務処理を行った。結局、大石内蔵助ら浪士たちの義盟に加わらず、兄・忠郷のいる江戸屋敷に戻ったが、赤穂浪士四十七士による討ち入り成功後、兄・忠郷から「重臣の身にありながら義挙に加... 続きを読む
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寺井玄渓
てらいげんけい
江戸時代前期の医師。号は桐庵。もともと播磨国明石藩の本多家に仕えていたという。その後、京で医者をし、のち縁あって播磨国赤穂藩の藩医となった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸藩邸にいたが、事件後、すぐに赤穂へ戻り、以降、大石内蔵助に従った。赤穂城開城後は京へ戻るが、討ち入りを決心した大石が江戸へ下向すると玄渓も同行を懇願する。しかし、大石に断られたため(高齢が理由とも)、かわりに息子の玄達を江戸へ送り赤穂浪士たちの治療などに当たらせた。討ち入り後は浪士の遺児たちの赦免運動に奔走したという。墓所は京の東山にある長楽寺。 続きを読む
高田郡兵衛
たかたぐんべえ
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。「槍の郡兵衛」と異名をとる槍の達人だが、赤穂浪士たちの義挙から脱盟したことで不忠臣とのそしりを受ける。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし、切腹、お家断絶となると、郡兵衛は堀部安兵衛、奥田孫太夫とともに江戸から赤穂へ急行し筆頭家老の大石内蔵助に篭城を主張、赤穂城開城後は、再び堀部・奥田らと江戸へ戻り江戸急進派として仇討ちを主張し続けた。ところが、郡兵衛は突如脱盟してしまう。その理由については、幕府旗本の伯父・内田三郎右衛門から養子になるよう申し出を受けたが、これを郡兵衛は「思うところがあって」と断った。このことを聞いた伯父は郡兵衛の兄に「思... 続きを読む
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萱野三平
かやのさんぺい
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。三平は通称で、名は重実(しげざね)。討ち入り前に主君への忠と父への孝の板ばさみとなり切腹した赤穂藩士として有名で、「48番目の義士」ともいわれる。また、「涓泉(けんせん)」という俳号を持つ俳人としても知られ、同じく義士で俳人の大高源五とは仲がよかった。摂津国萱野村(現・大阪府蓑面市萱野)に領地を持つ豪族・萱野氏の出身で、13歳から播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕えた。主君・長矩が江戸城にて刃傷事件を起こした時、三平は江戸におり、早水藤左衛門とともに早駕籠で第一報を赤穂へ伝えた。道中、三平は母の葬儀に偶然出くわし早水が「一目会っていけ」と勧め... 続きを読む
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奥野将監
おくのしょうげん
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の重臣。将監は通称で、名は定良(さだよし)。赤穂浪士四十七士のひとり大石瀬左衛門とは従兄弟の間柄。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし切腹、お家断絶となると、逐電した家老・大野九郎兵衛のかわりに筆頭家老・大石内蔵助を補佐し赤穂城明け渡しを行った。はじめから義盟に加わり参謀格として活動していたが、浅野家再興が絶望的になり吉良上野介への仇討ちが決定した円山会議の直後に脱盟した。その理由については、大石が討ち入りに失敗した際の備えになったとも、浅野内匠頭長矩の隠し子を育てるためともいわれるが真相は不明。その後、将監は播磨国に戻ると名を変え、新田開発などに... 続きを読む
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進藤源四郎
しんどうげんしろう
- 生年月日
- 1647年0月0日
- 没年月日
- 1730年0月0日
- 年齢
- 満83歳没
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。源四郎は通称で、名は俊式(としもと)。赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の母方の大叔父にあたる。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたあとは筆頭家老・大石内蔵助派として行動し、はじめから義盟に加わっていた。内蔵助とともにお家再興を目指していたが、お家再興が絶望的になると急速にやる気を失い、討ち入りを決定する円山会議にも参加しなかった。その後、同志から真にやる気のある者をふるいにかけるために内蔵助が行ったいわゆる「神文返し」の際、源四郎は脱盟の書状を提出。この時、内蔵助の叔父・小山源五左衛門も脱盟している。その後、源四郎は京の山科で暮らし、... 続きを読む
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小山源五右衛門
おやまげんごえもん
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の叔父にあたる。浅野長直、内匠頭長矩と2代に仕え、長矩が刃傷事件を起こしてからは大石内蔵助派として行動し、早くから義盟にも参加した。しかし浅野家再興が絶望的になり仇討ち路線が決定すると、源五右衛門は脱盟した。時を同じくして内蔵助の大叔父・進藤源四郎も脱盟しており、親族から2人も脱盟者が出た内蔵助は2人に再考を促したが、脱盟の意志は固かった。源五右衛門は赤穂浪士四十七士が討ち入りを成功させたあと、剃髪し京の山城に隠棲した。墓所は京の紫野にある瑞光院。 続きを読む
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藤井又左衛門
ふじいまたざえもん
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 1733年9月29日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家老。又左衛門は通称で、名は宗茂(むねしげ)。赤穂藩内では筆頭家老・大石内蔵助に次ぐ重臣だったが、討ち入りに参加せず、不忠臣とそしりを受けた。主君・浅野内匠頭長矩が勅使饗応役を務めた際、又左衛門は江戸家老・安井彦右衛門とともに補佐役にあったが刃傷事件をふせぐことはできなかった。事件後、堀部安兵衛ら江戸急進派から義盟に参加するよう打診されたがこれを断っている。その後、越中国富山藩の前田家の知り合いを頼り、「藤井左門」と改名し越中国射水郡(現・富山県射水市小杉)に住んだ。長男・藤井直明の手記によれば、姫路城下の網干で死去したとされ、墓が兵庫県明石市竜門... 続きを読む
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安井彦右衛門
やすいひこえもん
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の江戸家老。主君・浅野内匠頭長矩とは遠縁の間柄で、彦右衛門は長く江戸家老を任された。重臣だが討ち入りに参加しなかったため不忠臣のそしりを受けた。長矩が勅使饗応役を務めた際も家老・藤井又左衛門とともに輔佐役にあったが、刃傷事件を防ぐことはできなかった。さらに事件後、堀部安兵衛、奥田孫右衛門、高田郡兵衛ら江戸急進派が江戸にいた彦右衛門を仇討ちのリーダーにしようと打診したが「お家再興が先決」とこれを渋りあいまいな態度をとる。その一方、江戸急進派の陰口をしたり、「仇討ちがしたければ自分たちだけで勝手にやればいい」などと放言したという。このことを知った堀部安兵... 続きを読む
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貝賀弥左衛門
かいがやざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。弥左衛門は通称で、名は友信(とものぶ)。実兄の吉田忠左衛門、甥の吉田沢右衛門、岡島八十右衛門も同じく義士として討ち入りに参加した。赤穂藩浅野家家臣の次男として生まれ、母の弟で同じく浅野家臣の貝賀家に養子に入った。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こして以降は、大石内蔵助派として行動し義盟に加わった。赤穂城開城後は、浅野家の御用商人だった綿屋善右衛門の世話になり京に住んだ。誠実で忠義心の強い弥左衛門は大石内蔵助からの信頼もあつく、義盟に加わった同志の真意を探るため大高源五とともに誓文の血判状を返してまわり、同志の決意の固さを確かめるという重役を... 続きを読む
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茅野和助
かやのわすけ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。和助は通称で、名は常成(つねなり)。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、森家に仕えたあと、赤穂藩浅野家に再仕官した。なお、おなじく義士の神崎与五郎ももと津山藩森家の家臣。武術の達人で自眼流居合いをよくし、また弓にも優れていた。一方、俳諧もよくし「禿峰」という雅号を持っていた文武両道の士である。和助は赤穂藩内では最も身分の低い藩士のひとりで、主君・浅野内匠頭長矩に仕えてまだ4年目と新参だったが、主君・長矩が切腹するとすぐに義盟に加わった。江戸では磯貝十郎左衛門と同居し、町人になりすまして吉良方の動向を探った。討ち入りの... 続きを読む
杉野十平次
すぎのじゅうへいじ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十平次は通称で、名は次房(つぎふさ)。十平次自身は微禄ながら、母方の実家・荻原家は藩内でも知られる裕福な家だった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、十平次は参勤交代に同行していたため江戸にいた。赤穂城開城の際、母方の荻原家の伯父たちが先祖伝来の大砲を幕府方に売り払ってしまい、これが家中から一斉に非難され、荻原一家は赤穂から逃亡、十平次も肩身の狭さからか荻原家と義絶した。十平次自身は開城後、すぐに江戸へ出て江戸急進派と行動をともにした。また、家財道具を売り払って千両ほどのお金ができると、江戸に潜伏していた仲間の活動資金や生活費として惜... 続きを読む
神崎与五郎
かんざきよごろう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。与五郎は通称で、名は則休(のりやす)。家紋は蛇の目。大高源五と並び浅野家家中きっての俳人として知られ、「竹平」の俳号を持つ。また、浪士随一の酒豪といわれ、美男子だったと伝わる。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、はじめ津山藩森家に仕えたが浪人し、赤穂藩浅野家に再仕官した。もと津山藩士の義士に茅野和助がいる。茅野和助と同じく、神崎与五郎も藩内で最も位の低い藩士で微禄、しかも主君・浅野内匠頭長矩に仕えて数年の新参者だった。しかし、主君・長矩が刃傷事件を起こすとすぐに義盟に参加、江戸へ出たあとは吉良家親族の上杉家中屋敷にほ... 続きを読む
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三村次郎左衛門
みむらじろうざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。次郎左衛門は通称で、名は包常(かねつね)。赤穂藩浅野家に仕えるが役職は台所役という非常に低い身分だった。そのため、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし赤穂城開城をめぐる藩士総登城の場にも身分が低いことを理由に差別され出席を許されなかった。さらに身分の低さゆえ同志からいやがらせを受けることもあった。しかし、忠義一徹の士だった次郎左衛門は、「身分の上下でわけへだてするなら切腹して忠義の志をみせる」と抗議、これに心を打たれた大石内蔵助は次郎左衛門の義盟参加を認めたという(別説あり)。討ち入りに際しては裏門隊に属し、大槌で裏門を打ち壊すという大役を... 続きを読む
横川勘平
よこかわかんぺい
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘平は通称で、名は宗利(むねとし)。いつ頃かは不明だが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕え、長矩が刃傷事件を起こした時は江戸にいたがすぐに赤穂へ戻った。はじめ殉死を唱えていたが、義盟に参加し大石内蔵助に従った。のち、同志たちの決意の固さを確かめるため大石内蔵助が行ったいわゆる「神文返し」で、勘平は江戸の同志たちへの「神文返し」の大役を任されるなど大石からの信頼もあつかった。江戸では同志の堀部安兵衛と同宿し吉良方の動向を探索、独自のルートから12月14日に吉良邸で茶会が開かれるという情報を入手、これを大石内蔵助に報告した。続いて大高源五も同日に吉良邸... 続きを読む
寺坂吉右衛門
てらさかきちえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで、300人ほどいた浅野家足軽のなか唯一討ち入りに参加し、その後生き残ったことで知られる。吉右衛門は通称で、名は信行(のぶゆき)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、8歳の時から吉田忠左衛門(赤穂浪士リーダー大石内蔵助の右腕として活躍した義士)の家に奉公にあがり、27歳の時に忠左衛門の足軽となり正式に浅野内匠頭長矩の家臣となった。真面目で誠実な性格で、主人である忠左衛門に常に従い働いた。主君・長矩が刃傷事件を起こし、同志が義盟を交わした時、吉右衛門は足軽という低い身分から参加できなかったが、のち、義盟への参加を熱望しその忠心を大石内蔵助に認められ... 続きを読む
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大野九郎兵衛
おおのくろべえ
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家老。九郎兵衛は通称で、名は知房(ともふさ)。「赤穂事件」の時、赤穂城開城前に逐電したことから、フィクションにおける『忠臣蔵』では不忠臣の代表格となってしまった。優秀な経済官僚だったといわれ、藩財政と塩田開発に手腕を発揮し家老にまで出世した。主君・浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷事件を起こし、切腹、お家断絶となった際、九郎兵衛は開城恭順を主張し、篭城を主張する筆頭家老・大石内蔵助らと対立した。やがて大石の意見に賛同する者が増え、九郎兵衛は藩内で孤立、原惣衛門と岡島八十右衛門兄弟との仲たがいもあり、突如、九郎兵衛は息子とともに家財道具を置いたまま逐電した... 続きを読む
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田中貞四郎
たなかさだしろう
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の近習で、片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門とともに長矩から寵愛された。主君・長矩が江戸城で刃傷事件を起こした時も、お供で同行していたため江戸におり、切腹後、片岡、磯貝らと遺体を引き取ると泉岳寺に埋葬し墓前で仇討ちを誓った。貞四郎、片岡、磯貝の3人は仇討ちを一貫して主張し、はじめ赤穂の大石内蔵助らや江戸急進派ともなじまず独自の行動をとっていた。その後、大石らと合流し義盟に参加した。しかし、貞四郎はやがて酒色におぼれるようになり、果てには梅毒にかかり、ついには討ち入りの直前に脱盟してしまった。その後については不明。なお、片岡... 続きを読む
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小山田庄左衛門
おやまだしょうざえもん
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしお家断絶となると、大石内蔵助派として行動し早くから義盟に参加していた。江戸では堀部安兵衛と同宿し、吉良方の動向を探索するなど活動していたが、同志・片岡源五の金と小袖を盗んで逐電してしまった。赤穂浪士たちが討ち入りを果たしたあと、息子の脱盟を知りこれを恥じた庄左衛門の父は切腹した。その後、1721年(享保6)に江戸は深川万年町で医師・中島隆碩なる者が下男に殺害される、という事件が起きた。この殺された中島という医師は小山田庄左衛門だったといわれるが真相は不明。なお、この事件は講談『直助権兵衛』となって知られる。 続きを読む
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瀬尾孫左衛門
せおまござえもん
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で赤穂浪士四十七士のリーダーとして活躍した大石内蔵助の家臣で、討ち入り2日前に脱盟した。赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助の家臣で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の陪臣にあたるため、本来なら義盟に参加する資格はなかったが、大石内蔵助に懇願し特別に許され義盟に加わった。大石も瀬尾を非常に信頼していたと思われる。しかし、大石とともに江戸へ下ったあと、足軽の矢野伊助とともに討ち入りの際に使う武器を隠している川崎平間村の屋敷で留守を預かっていたが、吉良邸に討ち入りする2日前に矢野とともに逃亡した。その理由については大石からなんらかの密命を受けたともいわれるが不明。その後の瀬尾の... 続きを読む
細川綱利
ほそかわつなとし
江戸時代前期の大名、肥後国熊本藩の3代藩主。通称は六丸。「赤穂事件」において吉良上野介義央を討ち取った赤穂浪士四十七士のうち、リーダーの大石内蔵助をはじめ17人の義士のお預かりを担当したことで知られる。綱利は父の死後、6歳の幼さながら異例を認められ熊本藩3代藩主となった。1703年1月30日(元禄15年12月14日)、吉良邸に討ち入りし本懐をとげた赤穂浪士たちは幕府大目付・仙石伯耆守に自主、幕府の協議の結果、細川家、水野家、松平家、毛利家にそれぞれお預けとなった。大石内蔵助をはじめ17人の義士のお預かりを命じられた綱利は、細川家下屋敷まで義士たちを丁重に連れてくることを命じると、自身は到... 続きを読む
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水野監物
みずのけんもつ
江戸時代前期から中期の大名、三河国岡崎藩の4代藩主。幕府老中も務めた。官位から「水野監物」の通称で知られるが、名は忠之(ただゆき)。岡崎藩2代藩主・水野忠春の四男として生まれ、親族で旗本の水野忠近の養子となり家督を継いだ。その後、兄で岡崎藩3代藩主・水野忠盈(ただみつ)の養子となると、兄没後、家督を相続し4代藩主となった。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城大廊下にて吉良上野介義央に刃傷に及んだ時、水野は赤穂藩の鉄砲洲屋敷に赴き騒動の取り静めにあたった。さらに1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りし本懐をとげたあと、幕府に命じられ9人の義士を三田中... 続きを読む
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毛利甲斐守
もうりかいのかみ
江戸時代前期の大名、長門国長府藩の3代藩主。名は綱元(つなもと)。赤穂浪士四十七士のうち10人の義士のお預かり先となったことで知られる。56年もの長きにわたり藩主を務め、倹約を旨として「天和御法度」の制定や、文武奨励など藩政の確立と充実に尽力した。和歌や文芸を好む風雅な大名だったという。1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士四十七士が吉良上野介義央の屋敷に討ち入りし本懐をとげると、10人の義士を預かるよう幕府から命じられた。同じく義士のお預かり先となった熊本藩の毛利家、岡崎藩の水野家が義士を厚遇したのに対し、毛利はあくまで罪人として義士たちを扱い、窓や戸には板をうちつけ... 続きを読む
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松平隠岐守
まつだいらおきのかみ
江戸時代前期の大名、伊予国松山藩の4代藩主。名は定直(さだなお)。赤穂浪士四十七士のうち大石内蔵助の子・主税(ちから)や堀部安兵衛ら10人の義士を預かったことで知られる。伊予国今治藩主・松平定時の子として生まれ、又従兄にあたる松山藩主・松平定長の養嗣子となり定長の死後、松山藩主となった。藩主としては農政改革を行うなど藩政の安定に努めた。学問、俳諧を好み、多くの学者や俳人を招き藩内の文化興隆に貢献した。1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士四十七士が吉良上野介義央の屋敷に討ち入りし本懐をとげると、幕府に命じられ10人の義士を預かることになる。義士たちの待遇について、同じく... 続きを読む
大石内蔵助
おおいしくらのすけ
江戸時代前半の武士、播磨国赤穂藩の筆頭家老。『忠臣蔵』こと『仮名手本忠臣蔵』で知られる「元禄赤穂事件」で赤穂浪士たちを率い宿願を果たした。本姓は藤原、「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般に「大石内蔵助」の名で広く知られる。幼名は松之丞。10代の時に父、祖父が他界したため、若くして領地と「内蔵助」の通称を受け継ぎ、21歳で赤穂藩の筆頭家老という重職に就いた。平時においては「昼行灯」とあだ名されるほどの凡庸な家老だったといわれるが、1701年、勅使接待役の赤穂藩主・浅野長矩が接待役指南の高家肝煎・吉良義央を江戸城松之廊下で斬りつけるという刃傷事件が起きる。これに将軍・徳川綱吉が激怒... 続きを読む
浅野内匠頭
あさのたくみのかみ
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩の3代藩主。『忠臣蔵』こと「元禄赤穂事件」での悲劇の若き主君として知られる。官命から「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」と通称される。幼名は又一郎。赤穂藩2代藩主・浅野長友の長男として江戸鉄砲洲にある浅野家の上屋敷にて誕生。幼い頃に父母と死別し、9歳の幼さで赤穂藩主となった。朝鮮通信使饗応役に幕府から任命されたり、霊元天皇の勅使饗応役などを務めた。所領の赤穂藩へ初めて入ったのは17歳(満15歳)の時で、その時に筆頭家老・大石良雄らと対面した。1701年3月13日、2度目となる勅使饗応役を拝命、この時の礼法指南役が吉良善央であり、4月21日、江戸城本丸大廊下... 続きを読む
吉良上野介
きらこうずのけのすけ
江戸時代前期の武士。高家旗本。『忠臣蔵』こと「元禄赤穂事件」での敵役として知られる。官位から「吉良上野介(きらこうずけのすけ)」と通称される。幼名は三郎。家紋は丸に二つ引・五三桐。名前の読み方についてはこれまで「よしなか」とされてきたが、所領のあった愛知県吉良町の華蔵寺に収蔵される古文書から現在では「よしひさ」と考えられる。高家旗本・吉良義冬の嫡男として江戸鍛冶橋にある吉良邸にて誕生(陣屋があった群馬県白石の生まれとも)。義央の吉良家が務める「高家」とは幕府における儀式や典礼を司る役職で、いわゆる「名門」の家柄。1701年4月21日、江戸城本丸大廊下(通称:松の廊下)にて勅使接待役だった... 続きを読む
堀部安兵衛
ほりべやすべえ
江戸時代前期の武士。「堀部武庸(ほりべたけつね)」と読む。通称は堀部安兵衛。『忠臣蔵』で知られる「元禄赤穂事件」で吉良上野介義央の邸に討ち入りした赤穂浪士四十七士のひとり。浪士随一の剣客で、「高田馬場の決闘」でその名を知らしめた。父は越後国新発田藩の溝口家家臣・中山弥次右衛門。誕生直後に母が死去、男手ひとつで育ててくれた父も13歳の時に死去し孤児となった。その後、江戸へ出て堀内正春道場に入門、すぐに頭角を現した。1694年3月6日、同門の菅野六郎左衛門が高田馬場で果し合いをすることとなり、安兵衛はこれに助太刀、めざましい活躍を見せ、その名は江戸中に知られるほどとなった。堀部の勇名を聞いた... 続きを読む
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妙海尼
みょうかいに
江戸時代前期から中期の女性。「赤穂事件」から30年以上もたった頃、赤穂浪士四十七士のひとりとして名高い「堀部安兵衛の妻」を自称し、赤穂浪士たちの眠る高輪の泉岳寺近くに庵を結び、安兵衛の墓を参拝したり、訪れた人に義士たちの話を物語ったという。人々は本物の遺族と思い込み、お布施をする人が続出したという。また、丹波国篠山藩士の佐治為綱という人物は、妙海尼を訪ねその話を『妙海語』という本にまでまとめている。しかし、安兵衛の本物の妻(堀部ほり)は、すでに肥後国熊本で死去しており、妙海尼は偽者である。その正体は堀部家の女中だったのではないかともいわれるが真相は不明。ただ、妙海尼は死去するまで安兵衛の... 続きを読む
梶川与惣兵衛
かじかわよそべえ
江戸時代前期の旗本。「赤穂事件」で知られる赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に江戸城大廊下において刃傷に及んだ際、偶然その場に居合わせ、浅野内匠頭を取り押さえたことで知られる。ドラマなど『忠臣蔵』の創作物では「浅野殿、殿中でござる!」という台詞をよくあてられる。浅野内匠頭を取り押さえた功により、即日500石もの加増を受けた。また、刃傷事件についての詳細を『梶川与惣兵衛日記』に残しており、後世誕生した創作物はこれを典拠にしたものが多い。墓所は東京都中野区上高田にある天徳院。 続きを読む
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毛利小平太
もうりこへいた
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 0000年0月0日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、播磨国赤穂藩浅野家の家臣。小平太は通称で、名は元義(もとよし)とされる。「赤穂事件」における“最後の脱盟者”として有名。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こしたあと、早くから大石内蔵助に従い義盟に参加、江戸では「木原武右衛門」の変名で堀部安兵衛の借家に潜伏し、吉良邸の使用人になり内部を探るなど目覚しい活躍をした。しかし、小平太は討ち入り3日前の12月11日付けで脱盟する旨をしたためた書状を残し逐電、この書状を大石に手渡していなかったため、討ち入りの当日に大石は小平太の脱盟を知り、急遽、浪士たちの配置を組み替えた。小平太の脱盟理由については、兄に説得されたともいわれるが... 続きを読む
大石りく
おおいしりく
江戸時代前期の女性。「赤穂事件」における赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の妻として知られる。非常に大柄だったといわれ身長は6尺(約180cm)あったとも。但馬国豊岡藩京極家の家老・石束毎公の長女として、但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)にて生まれた。18歳の時に播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老・大石内蔵助と結婚し、長男・松之丞(のちの大石主税良金)をはじめ2男2女をもうけた。内蔵助の主君・浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷事件を起こし切腹、お家断絶、赤穂城開城となると、りくは4人の子どもたちと一時、豊岡の実家へ戻った。その後、内蔵助が京の山科に居を構えるとりくも山科へ移住した。しかし、討ち入りの方... 続きを読む
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吉良義周
きらよしちか
江戸時代前期の武士。「赤穂事件」における仇役として知られる吉良上野介義央の孫で養子。幼名は春千代、通称は左兵衛(さひょうえ)。吉良上野介の子で出羽国米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれる。父・綱憲の実家である吉良家では上野介の次男が跡継ぎとなっていたが夭折、ほかに男子がいなかったため5歳の義周が養子として吉良家に入ることとなり、米沢城から江戸へ移った。祖父で養父の上野介が江戸城にて赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に斬りつけられ、のち隠居すると義周が家督を継いだ。そして1703年1月30日(元禄15年12月14日)、義周が18歳の時、赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りが行われた。屋敷内にい... 続きを読む
清水一学
しみずいちがく
江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入りした際に討ち死にした。フィクションにおける『忠臣蔵』では吉良家随一の剣豪として描かれ、同門の友で義士の堀部安兵衛とも一騎打ちなどが名シーンとして描かれる。また、歌舞伎などの作品では「清水一角」「清水大学」などの名で登場する。史実としての一学は吉良上野介義央の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現・愛知県西尾市吉良町宮迫)の農家に生まれ、幼い頃から剣術を好み、剣術を習った。15歳の時から吉良上野介義央に仕え、上野介の寵愛を受け、一学も誠実に仕え忠義心にあつかったという。1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士四十... 続きを読む
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山吉新八
やまよししんぱち
- 生年月日
- 1671年0月0日
- 没年月日
- 1753年0月0日
- 年齢
- 満82歳没
江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で知られる吉良上野介義央の家臣で、赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの際、もっとも活躍した剣客といわれる。父は米沢藩上杉家の家臣。新八は吉良上野介の孫ながら養子として上杉家から吉良家に入った吉良義周の小姓となり、江戸の吉良邸で仕えた。記録によれば、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際、3人の浪士を相手に戦い、槍で突かれたり顔を斬られたりしながらも奮戦し、さらにまた別の浪士を相手に奮戦、再び斬られ倒れたが一命を取り留めたといわれる。事件後、吉良家も改易となり、吉良義周は信濃国諏訪藩(現・長野県諏訪市)にお預けとなったが、新八は義周に従い、義周が21歳の若さで死... 続きを読む
小林平八郎
こばやしへいはちろう
- 生年月日
- 0000年0月0日
- 没年月日
- 1703年1月31日
- 年齢
- 不明
江戸時代前期の武士、「赤穂事件」で知られる高家・吉良上野介義央の家臣で吉良家の家老。平八郎は通称で、名は央通(ひさみち)。赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの際に討ち死にした。講談や歌舞伎、ドラマといった『忠臣蔵』のフィクションでは吉良方で最も活躍した家臣という設定で浪士たちを苦しめる剣客として描かれることが多い。女物の打ち掛けをかぶって浪士と華々しい立ち回りを演じる、という演出も有名。没年齢についても諸説あるなど不明な点の多い人物で、伝説によれば孫娘の生んだ子がかの天才絵師・葛飾北斎だというが真相は不明。墓所は東京都新宿区牛込にある吉良家菩提寺・万昌寺と東京都豊島区巣鴨にある慈眼寺。 続きを読む
千坂兵部
ちさかひょうぶ
江戸時代前期の武士、米沢藩上杉家の江戸家老。兵部は通称で、名は高房(たかふさ)。「赤穂事件」を題材にした講談や歌舞伎など『忠臣蔵』の創作物では、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ちいる際に、実父・吉良上野介義央を助けるために出兵しようとする主君・上杉綱憲を制止する役として登場することが多い。また、非常な知恵者で赤穂浪士たちのリーダー大石内蔵助のライバル的存在として描かれることも多い。しかし、実際には赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城で吉良上野介に対し刃傷におよんだ時にはすでに隠居して米沢におり、討ち入りが行われる2年前に死去している。なお、討ち入り当時の上杉家江戸家老は色部又四郎安長。墓所は山形... 続きを読む
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色部又四郎
いろべまたしろう
江戸時代前期から中期の武士、米沢藩上杉家の江戸家老。又四郎は通称で、名は安長(やすなが)。『忠臣蔵』などの創作物では、父・吉良上野介を助けるため出兵しようとする主君・上杉綱憲を色部が制止するというシーンがしばしば登場するが、実際には赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った時、江戸家老として江戸にはいたが、実父の喪中だったため上杉家に出仕していなかった。事件の翌日に急遽、出仕したという。その後も長く上杉家の江戸家老を務め、赤穂浪士の討ち入りから13年後に隠居し米沢へ帰国、のち同地で没した。墓所は山形県米沢市にある千眼寺。 続きを読む
徳川綱吉
とくがわつなよし
江戸幕府の5代将軍でもと上野国館林藩主。幼名は徳松。別名は松平綱吉。通称は館林参議、館林宰相。3代将軍・徳川家光の四男として(母は側室・お玉)江戸城にて生まれる。館林25万石の藩主となったが、基本的には江戸在住で館林に寄ったことは1度のみといわれる。兄で4代将軍の家綱に世継ぎが誕生しなかったため、家綱の養子となり、家綱の死後、5代将軍に就任した。儒学に造詣の深かった綱吉は、徳を重んじる「文治政治」を推進、学問の中心地として湯島聖堂の建立などを行った。治世前半は「天和の治」と称えられるほどの善政を敷いていたが、1684年に大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるという事件が起きて以降、... 続きを読む
浅野大学
あさのだいがく
江戸時代前期から中期の旗本。本名は浅野長広(あさのながひろ)だが、一般に「浅野大学」の名で知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の弟で、のち養子となった。幼名は戌千代。赤穂藩主・浅野長友の子として江戸で生まれる。15歳の時に兄・長矩とともに兵学者・山鹿素行に入門し兵学などを学んだ。兄・長矩が江戸城において吉良上野介義央に対し刃傷事件を起こし切腹となると、長広も連座となり所領も没収された。5代将軍・綱吉が没するとそれに伴う大赦で許され、改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を賜り旗本に復し、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興の悲願を果たした。墓所は兄・長矩や赤穂浪士た... 続きを読む
近松勘六
ちかまつかんろく
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘六は通称で、名は行重(ゆきしげ)。家紋は六ツ星。同じく赤穂浪士のひとり奥田貞右衛門(行高)は異父弟。祖父が赤穂藩の典医として仕えた縁から勘六も赤穂藩士となった。山鹿流兵学に通じたという。赤穂城開城後は故郷の近江国の野洲郡蛭田(現・滋賀県野洲市)に隠れ住み、大石内蔵助ら同志と連絡をとりあった。江戸にいる急進派を抑える役目を果たし、江戸では「田口三介」の変名で潜伏した。吉良邸討ち入りの際には表門隊に属し、戦闘中に泉水に落ちて重症を負ったという。討ち入り後、熊本藩・細川家屋敷にお預けとなり、切腹。墓所は徳島県徳島市にある慈光寺と滋賀県野洲市にある... 続きを読む
間瀬久大夫
ませきゅうだゆう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。久大夫は通称で、名は正明(まさあき)。家紋は右三つ巴(巴とも)。姓名の読みは「まなせきゅうだゆう」であるという説もある。子の間瀬孫九郎、従兄の小野寺十内、甥の中村勘助も義士として討ち入りに参加した。赤穂藩浅野家の家臣の子として生まれ、家督を相続すると久大夫も赤穂藩士となり、赤穂藩大目付を務めた。主君・浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷事件を起こした時は赤穂におり、その後は大石内蔵助を補佐しよき相談相手となった。非常に厳格で実直な性格で老齢ながら忠義心あつく、一貫して吉良への討ち入りを主張し大石にもたびたび決起を迫った。討ち入りの際は表門隊に属し、本... 続きを読む
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間瀬孫九郎
ませまごくろう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。父・間瀬久大夫とともに親子で義挙に参加した。孫九郎は通称で、名は正辰(まさとき)。姓名の読みは「まなせまごくろう」という説もある。家督は継いでおらず部屋住みの身だったが、赤穂城開城後から父・久大夫とともに義盟に加わった。討ち入りの際は裏門隊に属し、野外の警戒役として活躍、討ち入り後は水野監物屋敷へお預かりとなり、切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や父ら赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。心優しい青年だったといわれ、吉良邸から引き上げる途中、槍につけていた袖印(敵味方を見分けるための目印)を見物人の子どもに請われ与えたという逸話がある。 続きを読む
赤埴源蔵
あかばねげんぞう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源蔵は通称で、名は重賢(しげかた)。姓名の読みは「あかはにげんぞう」とう説もある。「赤穂事件」を題材にした物語『仮名手本忠臣蔵』のなかでは「赤垣源蔵」の名で登場。なお『忠臣蔵』での源蔵といえば「徳利の別れ」と呼ばれる留守中の兄の羽織の前で酒を酌み交わし別れを告げるシーンが有名だが、実際には下戸でむしろ甘党だったといい、兄も実在しない。主君・浅野内匠頭長矩が江戸城において刃傷事件を起こした時は江戸におり、以後、江戸の急進派として討ち入りを主張し続けた。無口な人物だったといわれ、討ち入り直前、妹の嫁ぎ先へいとまごいに行った際、妹の義理の父から仇討... 続きを読む
潮田又之丞
うしおだまたのじょう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。又之丞は通称で、名は高教(たかのり)。妻のゆうは、大石内蔵助のいとこにあたる。家紋は細輪に三引。赤穂藩浅野家の家臣の子として生まれ、赤穂藩士となると郡奉行、絵図奉行を務めた。文武両道に長けた人物で、槍を得意としたほか、東軍流の剣術も習得した。親戚筋にあたることから大石内蔵助からの信頼もあつく、赤穂城開城後も大石と行動をともにした。大石の命により堀部安兵衛らと江戸の急進派を説得に向かったが、逆に説得され急進派に転向。江戸では「原田斧右衛門」の変名を使い吉良屋敷を探り、絵図奉行の腕前をいかして富森助右衛門が入手した吉良屋敷の図面を清書したといわれ... 続きを読む
富森助右衛門
とみのもりすけえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。助右衛門は通称で、名は正因(まさより)。俳諧をたしなむ文化人で、松尾芭蕉の高弟・宝井其角(きかく)に師事し、自身も「春帆」の号を持つ。赤穂藩御留守居役の子として生まれ、父を早くに亡くしたため幼い頃から赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕え、長矩からの信頼もあつかった。非常に母親孝行な人物として知られ、母から「いついかなる御用をおおせつかってもいいように20両くらいは持っておきなさい」という言いつけを守り、懐には常に20両をひそませていたという。また、討ち入り時には母の小袖を身につけ戦いに挑んだ。大石内蔵助からの信頼もあつかった助右衛門は、討ち入り後、... 続きを読む
不破数右衛門
ふわかずえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。数右衛門は通称で、名は正種(まさたね)。家紋は隅角切に横一。赤穂藩譜代・不破家の養子となり家督を継ぐが、粗野な性格で同僚トラブルを起こしたり、刀の切れ味を試すため死体を試し斬りしたりといった不行跡により主君・浅野内匠頭長矩の勘気をこうむり、藩を追われ浪人となった。その後は江戸に住んだが、もと主君・長矩による刃傷事件が起こる義盟への参加を懇願、大石のとりなしで泉岳寺の主君の墓前で帰参が許され、義盟に加わることになった。なお、浪人で討ち入りに参加したのは数右衛門ただひとり。討ち入り時は裏門隊に属した。討ち入りに際しては各々持ち場が厳密に決められて... 続きを読む
岡野金右衛門
おかのきんえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。金右衛門は通称で、名は包秀(かねひで)、幼名は九十郎。伯父・小野寺十内、従弟・大高源五も赤穂浪士として討ち入りに参加している。家紋は釘貫。『忠臣蔵』などのフィクションでは小間物売りの美青年で、大工の棟梁の妹・お艶と恋人ととなり吉良邸の絵図面を手に入れる「恋の絵図面取り」で有名だが、虚実は不明。俳句をたしなむ趣味人で、「放水子」などの号でいくつかの句を残している。小野寺十内の弟・岡野金右衛門包住の長男として生まれ、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時はまだ部屋住みの身であったが、父とともに大石内蔵助に賛同し義盟に参加していたが、父が病死す... 続きを読む
吉田沢右衛門
よしださわえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。沢右衛門は通称で、名は兼貞(かねさだ)。父・吉田忠左衛門(兼亮)も赤穂義士のひとりで副将的役割を果たした人物。沢右衛門は忠左衛門の三男だが兄が2人とも早世したため嫡男となった。父と同じく赤穂藩に仕え、赤穂藩改易後は父と行動をともにし、吉良邸討ち入りの際には父・忠左衛門が裏門隊に属したのに対し、表門隊に属した。本懐を果たしたのちは長府藩毛利家屋敷にお預かりとなり、切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や父をはじめとする赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。美男子だったといわれるが逸話が少なく謎の多い人物である。 続きを読む
吉田忠左衛門
よしだちゅうざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで副将的存在。忠左衛門は通称で、名は兼亮(かねすけ)、本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。同じく赤穂浪士のひとりである貝賀友信は実弟、さらに三男の吉田沢右衛門(兼貞)も義士として義挙に参加した。常陸国笠間藩の浅野家家臣の子として笠間(現・茨城県笠間市)にて生まれ、主家が播磨国赤穂藩へ移封されたのに従い、赤穂藩浅野家に仕え足軽頭となった。文武両道の人物で、大石内蔵助も忠左衛門をあつく信頼した。主君・浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷事件を起こし切腹、赤穂藩改易となったのちは、一貫してリーダーの大石内蔵助に従い、江戸へ下って急進派を説得するなど補佐役を務めた... 続きを読む
室鳩巣
むろきゅうそう
江戸時代中期の儒学者。諱は直清、字は師礼、通称は新助(信助とも)、号はほかに滄浪(そうろう)。医師・室玄樸(げんぼく)の子として武蔵国中村(現・東京都台東区谷中)にて生まれる。幼い頃から学問を好み、14歳で加賀藩主・前田綱紀に仕え、君命により儒学者・木下順庵に入門し俊英として知られた。その後、同門の新井白石の推挙で幕府の儒官となり、のち8代将軍・吉宗のブレーンとして「享保の改革」を輔佐した。著書『赤穂義人録』のなかで「赤穂事件」において赤穂浪士たちへの処罰をめぐり浪士を擁護したのは有名。著書はほかに『六諭衍義(りくゆえんぎ)大意』(和訳)『五常名義』『五倫名義』『駿台雑話』など多数。 続きを読む
上杉綱憲
うえすぎつなのり
江戸時代前期の大名。「赤穂事件」で赤穂浪士に討ち取られた高家肝煎・吉良上野介義央の子。幼名は吉良三之助、上杉氏に養子入りしたのちは上杉景倫(かげのり/かげとも)、上杉時代の通称は喜平次。官位は従四位下、侍従、弾正大弼。米沢藩主で伯父の上杉綱勝が嗣子のないまま急死し、米沢藩が改易の危機に陥った際、綱勝の岳父・保科正之の取り成しで生まれたばかりの綱憲が養子として上杉家に入り改易を免れた。のち実家の吉良家に後継者がいなくなっていたため、綱憲は次男(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。米沢藩主としての綱憲は数学振興やのちに藩校「興譲館」となる聖堂・学問所を設立するなど文治政治に力を注いだ。し... 続きを読む
大石主税
おおいしちから
江戸時代前期の武士。赤穂浪士のリーダー大石内蔵助良雄の子で、赤穂浪士四十七士のひとり。通称の主税で知られるが、名は良金(よしかね)、幼名は松之丞。播磨国赤穂藩の筆頭家老・大石良雄の嫡男として赤穂にて生まれる。13歳の時、主君・浅野匠頭長矩が江戸城にて刃傷事件を起こし、長矩は即刻切腹、御家は断絶となった。赤穂城明け渡し後、主税は母りくや弟の吉之進、妹のくう、るりと共に母の実家で過ごし、その後、父・良雄が京の山科へ移住すると、主税たちも山科へ移った。主税は元服すると御家再興運動に加わり、以降、父・良雄と行動を共にした。御家再興の望みが絶たれ吉良上野介義央への敵討ちが決定すると、主税は江戸へ下... 続きを読む
岡島八十右衛門
おかじまやそえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。八十右衛門は通称で、名は常樹(つねしげ)。米沢藩上杉家の浪人・原七郎の子として生まれた。20歳近く歳の離れた兄・原惣右衛門(元辰)も赤穂浪士四十七士のひとり。兄・元辰が赤穂藩主・浅野長矩に仕えていたことから、八十右衛門も浅野家臣・岡島善右衛門の婿養子となり、岡島家を継ぎ札座奉行として浅野家に仕えた。赤穂城開城の際には、藩札引き換えの任を担当しこれを全うした。八十右衛門は兄・元辰とともに早くから義盟に加わったが、一時、病に倒れ連絡が途絶えたため同志から疑われることになった。八十右衛門の忠義心は揺らぎることなく、吉良邸討ち入りの際は表門隊に属し宿... 続きを読む
原惣右衛門
はらそうえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。惣右衛門は通称で、名は元辰(もととき)。弟の岡島八十右衛門も四十七士のひとり。米沢藩上杉家の浪人・原定辰の子として生まれ、赤穂藩に仕官した。1701年(元禄14)に主君・浅野長矩が江戸城にて吉良義央に刃傷に及んだ際には伝奏屋敷に詰めており、その夜、主君・長矩の切腹などを伝える第二の使者として大石瀬左衛門信清とともに赤穂へ出発、5日後には家老・大石内蔵助に伝える大役を果たした。赤穂城明け渡し後は大石内蔵助の補佐として活躍、江戸に出てからは「和田元真」の変名を使い吉良邸討ち入り作戦の立案にあたった。討ち入り当日は弟の岡島八十右衛門とともに表門隊に... 続きを読む
阿久里
あぐり
江戸時代前期から中期の女性。「赤穂事件」で知られる播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の妻として名高い。浅野内匠頭の死後、落飾して瑤泉院と称する(「ようぜいいん」と読まれることが多いが、正しい読みは「ようぜんいん」)。父は広島藩の支藩である備後国三次(みよし)藩の初代藩主・浅野長治、母は浅野内匠頭長矩の曽祖父の娘。初名は尚姫のち栗姫、その後、阿久里と改名。3歳の時に赤穂藩主・浅野長矩との婚約が決まり、9歳の頃に正室となったが子宝に恵まれず、長矩の弟・浅野大学(長広)を養子とした。夫・長矩が江戸城で刃傷事件を起こし、即日切腹、御家断絶となると、瑤泉院は赤坂にある実家・三次浅野家に引き取られ、落飾... 続きを読む
片岡源五右衛門
かたおかげんごえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五右衛門は通称で、名は高房。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。御三家のひとつ尾張徳川家の家臣の子として名古屋に生まれる。幼い頃に親戚にあたる赤穂藩士・片岡六左衛門の養子となり、9歳の時に養父が死去すると家督を継ぎ、主君・浅野内匠頭長矩に小姓として仕えた。同年齢で頭の早い源五右衛門は長矩から寵愛を受けスピード出世していき、赤穂浪士のなかでは家老である大石内蔵助に次ぐ高家禄となった。主君・長矩が江戸城で刃傷事件を起こした時は江戸城内に控えており、切腹の直前、長矩に対面したといわれる(真偽は不明)。切腹後、長矩の側用人たちと遺体を泉岳寺に埋葬、そ... 続きを読む
堀部弥兵衛
ほりべやへえ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで最高齢となる77歳の義士。弥兵衛は通称で、名は金丸(かなまる)。本姓は近江源氏。家紋は四ツ目結二ツ。同じく赤穂浪士のひとりで「高田の馬場の決闘」で名高い堀部安兵衛(武庸)は養子。浅野家の譜代の家臣である堀部家に生まれ、若い頃から赤穂藩士として浅野長直、長友、長矩の3代に仕えた。主君・長矩が江戸城で刃傷事件を起こした時はすでに隠居し家督を養子の安兵衛に譲って江戸にいたが、養子の安兵衛とともに急進派の中心となって「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。吉良邸討ち入り時は表門の警護を担当、捕らえた吉良家門番の監視も行った。討ち入り後は熊本藩・細川家屋... 続きを読む
小野寺十内
おのでらじゅうない
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十内は通称で、名は秀和(ひでかず)。家紋は木瓜。養子の小野寺幸右衛門(秀富)や甥の岡野金右衛門(包秀)も義士として討ち入りに参加している。妻の丹とは非常に仲がよく、夫婦で和歌を学び多くの作品を残した。また和歌だけでなく古典や儒学にも通じ、儒学は儒学者・伊藤仁斎に師事。代々、浅野家に仕える小野寺家に生まれ、常陸国笠間藩時代の浅野家に仕え、京都留守居役を務めた。主君・浅野内匠頭が刃傷事件を起こした時は京にいたが、凶報に接するや戦道具をまとめて討ち死に覚悟で赤穂へ駆けつけた。以降、大石内蔵助の参謀的存在として活動、大石をサポートし続けた。その間も京... 続きを読む
小野寺幸右衛門
おのでらこうえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。幸右衛門は通称で、名は秀富(ひでとみ)。養父の小野寺十内、実兄の大高源五も義士として討ち入りに参加している。赤穂藩浅野家の家臣・大高兵左衛門の子として生まれたが、母が小野寺十内の姉であった縁から子のいない十内の養子となった。幸右衛門は養父・十内や実兄の源五と同様に俳諧をたしなんだという。主君・浅野内匠頭が刃傷事件を起こした時、幸右衛門は部屋住みの身だったが、養父・十内とともに義盟に加わり、以降、常に十内と行動をともにした。江戸に潜伏中、老いた養父・十内のつくろいものをしていたといい、非常に孝行心にあふれる若者だった。討ち入りの際は表門隊に属し... 続きを読む
木村岡右衛門
きむらおかえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。岡右衛門は通称で、名は貞行(さだゆき)。家紋は丸に違い丁字。赤穂藩浅野家の譜代家臣の子として生まれ、馬廻り役と絵図奉行を兼任した。学問好きの人物で早くから陽明学を学んだという。慎重な性格から義盟に正式参加したのは赤穂城開城からおよそ1年後の円山会議の席上においてで、最後の参加者となった(一貫して討ち入りを主張したとの説も)。ひとたび討ち入りを決めたらその意志は固く、生前にお寺で戒名をつけてもらっている(英岳宗俊信士)。討ち入りの際は裏門隊に属し、この戒名を書いたものを左肩に縫い付けていたという。討ち入り後、伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けとな... 続きを読む
千馬三郎兵衛
せんばさぶろうべえ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。三郎兵衛は通称で、名は光忠(みつただ)。摂津国高槻藩永井家の家臣の子として生まれたが、同族の千馬家の養子となり家督を継いだ。赤穂藩では馬廻り役などを務め100石取りであったが、剛直で融通のきかない性格だった三郎兵衛はしばしば主君・浅野内匠頭長矩にも率直な意見を述べ、相性はあまりよくなかった。その後、長矩の不興を買って大減俸され嫌気をさした三郎兵衛は、ついに浅野家を去ろうとする。その矢先に長矩が刃傷事件を起こし、赤穂藩は改易、お家断絶という大事件が起きた。三郎兵衛は藩の大事の時に私情を優先するは不忠、として赤穂に残ることを決めると義盟に加わった... 続きを読む
菅谷半之丞
すがやはんのじょう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。半之丞は通称で、名は政利(まさとし)。子どもの頃、赤穂に配流中だった兵学者・山鹿素行に直接教えを受け、のち赤穂藩家老の大石頼母助良重につき山鹿流兵学の免許皆伝を受けたといわれる。冷静沈着で物静かな性格だったというが、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし赤穂藩が改易となった直後から義盟に加わり大石内蔵助に従った。江戸に出てくるまでは赤穂や備後国三次、伏見などで時機を待った。江戸に出てからは大石内蔵助の作戦参謀的な役割を担い、討ち入りに際しては裏門隊に属し奮戦した。伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けののち切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士... 続きを読む
村松喜兵衛
むらまつきへえ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。喜兵衛は通称で、名は秀直(ひでなお)。もと浪人の町人の子として江戸で生まれ、のち赤穂藩士の和算学者・村松茂清の婿養子となった。赤穂藩では江戸詰めの藩士だったので、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時も江戸にいたが、凶報を聞くや赤穂へ向かうことを決意。この時、ともに江戸にいた長男・三太夫に家族を託すが、三太夫は父を追いかけ赤穂行きを志願。しかし、三太夫はまだ部屋住みの身であること、家族のことを頼みたいという理由から喜兵衛は反対するが、三太夫の決意は固く、結局、一緒に赤穂へ戻り義盟に加わった。その後、江戸へ戻ると「隆円」という変名で医者(按... 続きを読む
村松三太夫
むらまつさんだゆう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。三太夫は通称で、名は高直(たかなお)。父は同じく義士の村松喜兵衛。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は、江戸詰め藩士だった父とともに江戸にいたが、凶報に接するや赤穂へ急行しようとする父に同行した。当初、まだ部屋住みであること、老母を頼みたいという理由から父・喜兵衛に赤穂へ戻ることを反対されたが、三太夫の意志は固く、父と赤穂へ戻ると義盟に加わった。その後、父・喜兵衛とともに江戸へ戻り、討ち入りまでの間、「荻野十左衛門」などの変名を使い江戸で仇討ちの準備を進めた。討ち入りの際は裏門隊に属し、討ち入り後、三河国岡崎藩の水野監物屋敷にてお預け... 続きを読む
倉橋伝助
くらはしでんすけ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。伝助は通称で、名は武幸(たけゆき)。7歳(6歳とも)の時に父を亡くし幼くして家督を継ぐと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に中小姓として仕えた。主君・長矩が刃傷事件を起こした時は、参勤交代で同行していたため伝助も江戸におり、同じく江戸にいた堀部安兵衛に同調して江戸急進派のひとりとなった。しかし、お家再興を望む大石内蔵助に派遣された吉田忠左衛門の説得を受け、討ち入りの時機を今かと待った。江戸では堀部安兵衛の借家に住み、同じく義士の前原伊助が営む店の手代「十左衛門」として吉良側の動向を探った。討ち入りに際しては裏門隊に属し、亡き主君・長矩から拝領した大太... 続きを読む
大高源五
おおたかげんご
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五は通称で、名は忠雄(ただお)。家紋は丸に三盛亀甲花菱。実弟・小野寺幸右衛門、伯父・小野寺十内も義士として討ち入りに参加している。首は太くて短く、あばた面であったが、「子葉」の俳号を持つ俳人で、茶道や和歌、国文にも通じる文雅の士だった。平安時代から続く名家・大高家に生まれ、父の死後家督を継ぐと赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕えた。主君・長矩が刃傷事件を起こした時、同行していた源五も江戸にいたが、凶報を知るや赤穂に戻り、以後、大石内蔵助のもっとも信頼する同志のひとりとして活躍した。その信頼のあつさは、江戸にいる急進派の鎮撫や「神文返し」の使者とい... 続きを読む
矢頭右衛門七
やがしらえもしち
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。右衛門七(えもしち)は通称で、名は教兼(のりかね)。義士のなかでは大石主税に次いで若かった。女性に間違えられるほどの美青年だったという。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、右衛門七はまだ部屋住みの身で、父の長助が義盟に加わり活動していた。しかし、その父が病に倒れ、代理として右衛門七が会議などに出席。その後、「自分が死んでも念仏もいならい。ただ、父のかわりに同志たちと必ずや吉良を討ってくれ」と遺言し父は病死してしまう。父の遺志を引き継いだ右衛門七は義盟への参加を懇願するが、大石内蔵助は「あまりにも若すぎる」という理由でこれを認めなか... 続きを読む
勝田新左衛門
かつたしんざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。新左衛門は通称で、名は武尭(たけたか)。若いながらも剣術の達人。幼くして父と母を亡くし家督を継ぐと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に中小姓として仕えた。主君・長矩が刃傷事件を起こした時は赤穂におり、直後から義盟に加わり、その後、堀部安兵衛ら江戸急進派と合流した。江戸に潜伏中は同志の杉野十平次の隠れ家に同居し、「嘉右衛門」の変名で町人として吉良の動向を探った。討ち入りに際しては表門隊に属し奮戦、討ち入り後、長門国長府藩の毛利家屋敷にお預けとなり切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。新左衛門といえば、幕府与力の娘と結婚してお... 続きを読む
中村勘助
なかむらかんすけ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘助は通称で、名は正辰(まさとき)。伯父・間瀬久太夫と従弟・間瀬孫九郎も義士として討ち入りに参加している。越後国村上藩の松平家家臣の子として奥州は陸奥国白川に生まれるが、その後、赤穂藩浅野家家臣・中村庄助の娘婿となり中村家の家督を継いだ。文書や書に優れていたため祐筆(主君の代筆役)を務め、赤穂城開城後は大石内蔵助の代筆もした。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は赤穂におり、直後から義盟に加わると大石に従った。最初、大石と同じくお家再興派だったが、大石の命で堀部安兵衛ら江戸急進派を鎮撫するため江戸へ下向、しかし、反対に感化され急進派のひ... 続きを読む
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間新六郎
はざましんろくろう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。新六郎は通称で、名は光風(みつかぜ)。父・間喜兵衛、兄・十次郎とともに家族3人で討ち入りに参加した。間喜兵衛の次男として生まれ、赤穂藩の舟奉行・里村家の養子となったが義父との折り合いが悪く出奔、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸で浪人をしていた。父と兄が義盟に加わっていることを知ると新六郎も参加を懇願したが浪人のため断られ、何度も参加を申し出た結果、ようやく認められた。討ち入りの際は裏門隊に属し、屋外にて奮戦。本懐をとげたあとは長門国長府藩の毛利家屋敷にてお預けとなり切腹した。当時、切腹は様式化しており実際に自分で腹を切ることは... 続きを読む
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奥田孫太夫
おくだまごだゆう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。孫太夫は通称で、名は重盛(しげもり)。同じく義士の奥田貞右衛門は娘婿。孫太夫は真心影流の剣客としてしられ大太刀を得意とし、同じく義士の堀部安兵衛とは同門の仲。はじめ志摩国鳥羽藩の内藤家に仕えていたが、主君の妹が赤穂藩主・浅野長友(浅野内匠頭長矩の父)に嫁いだ際に付き人として赤穂に移った。鳥羽藩の主君が刃傷事件を起こし切腹したため鳥羽藩は改易、内藤家はお家断絶となったが、孫太夫はそのまま赤穂藩浅野家に残った。ところが今度は浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし切腹、赤穂藩は改易、浅野家もお家断絶となった。刃傷事件当時、孫太夫は江戸にいたが堀部安兵衛や... 続きを読む
奥田貞右衛門
おくださだえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。貞右衛門は通称で、名は行高(ゆきたか)。同じく義士の奥田孫太夫は義父で、これまた同じく義士の近松勘六は異父兄。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、のち、奥田孫太夫の婿養子となった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こして以降は父・孫太夫と行動をともにし、討ち入りに際しては裏門隊に属した。吉良邸から引き上げる時には、戦闘中、泉水に落ちて負傷した兄・近松勘六に自分の小袖を着せ肩を貸して一緒に引き上げたという逸話がある。三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けののち、切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。貞右衛門には討ち入り直前... 続きを読む
早水藤左衛門
はやみとうざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)。備前国岡山藩の池田家家臣の子として生まれたが、家督を兄が継いだため、播磨国赤穂藩の浅野家家臣・早水家の婿養子となった。藤左衛門は、弓術では海内無双と謳われた星野茂則に師事し、弓矢にかけては藩内に並ぶ者なし、といわれた弓矢の達人として知られる。また、和歌や絵画もたしなむ文武両道の士で、仲間からの信頼もあつかった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸におり、萱野三平とともに急使となり、第一の早籠で江戸から赤穂まで155里(約620km)を4日半でかけぬけ第一報を赤穂に伝えた。以降、義盟に加わり大... 続きを読む
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矢田五郎右衛門
やだごろうえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。五郎右衛門は通称で、名は助武(すけたけ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、父の死後、家督を相続すると江戸詰めの藩士となり、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時も江戸にいた。江戸急進派のひとりとして一貫して仇討ちを主張し、討ち入りに際しては表門隊に属し奮戦した。戦闘中、五郎右衛門は背後から斬りつけられたが、着込んでいた鎖帷子のおかげで負傷せずにすんだ。しかし、敵を斬り倒した際に愛刀が折れてしまう。五郎右衛門は相手の刀を奪うと戦い続けた。討ち入り後は熊本藩の細川家屋敷にお預けとなり、切腹。お預けになっている間に五郎右衛門は細川家の人に「自... 続きを読む
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大石瀬左衛門
おおいしせざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。瀬左衛門は通称で、名は信清(のぶきよ)。大石内蔵助の嫡男・主税を除いて、大石家から唯一義盟に加わった若者。大石内蔵助と同じく東軍流剣術を学んでいた。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、瀬左衛門は江戸におり、主君の切腹を赤穂に伝えるため原惣右衛門とともに第二の使者として赤穂へ戻り、以後、義盟に加わり大石内蔵助に従った。瀬左衛門の兄も当初、義盟に加わっていたがのち脱盟し再仕官したため、これに憤怒した瀬左衛門は兄と義絶した。討ち入りの際は裏門隊に属し、槍を武器に奮戦した。なお、討ち入りの時に着ていた衣装は伯父の大石無人が用意してくれたもので... 続きを読む
磯貝十郎左衛門
いそがいじゅうろうざえもん
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十郎左衛門は通称で、名は正久。幕臣に仕える武士の子として生まれたが、主家の断絶により父が浪人となると、美少年だった十郎左衛門は京の愛宕山教学院の稚児小姓となった。14歳の時、父と懇意だった赤穂藩士・堀部弥兵衛の紹介で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の小姓となり、美青年で利発、しかも文武に秀でていた十郎左衛門は長矩の寵愛を受け、出世の階段を駆け上っていった。児小姓頭だった片岡源五右衛門とは非常に仲がよかったという。主君・長矩が江戸城にて刃傷事件を起こした時は江戸におり、切腹した長矩の亡骸を引き取り泉岳寺に埋葬した。この時、墓前にて髻(もとどり)を切ると... 続きを読む
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間喜兵衛
はざまきへえ
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。喜兵衛は通称で、名は光延(みつのぶ)。大石内蔵助とは遠縁の間柄で、長男・十次郎、次男・新六郎とともに親子3人で討ち入りに参加した。山鹿流兵学を学び、武芸にも優れた文武両道の士で、寡黙で温厚な人物だったという。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は赤穂におり、以後、義盟に加わり大石に黙々と従った。討ち入りの際は裏門隊に属し、大石内蔵助の嫡男・主税の後見にあたった。喜兵衛は槍に自作の句「都鳥いざこととはん武士(もののふ)の恥ある世とは知るや知らずや」を書いた短冊をつけて討ち入りにのぞんだという。老齢ながら敵のひとりを倒す活躍を見せた。熊本藩... 続きを読む
間十次郎
はざまじゅうじろう
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十次郎は通称で、名は光興(みつおき)。父・間喜兵衛、弟・新六郎とともに家族3人で討ち入りに参加した。江戸一番の剣客として知られた堀内源左衛門の道場で剣を学び(同門に同じく義士の堀部安兵衛や奥田孫太夫も)、槍術や柔術にも通じる武芸者であった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時はまだ部屋住みの身分だったが、父・喜兵衛とともに義盟に参加した。討ち入りの際は表門隊に属し、大高源五とともに吉良邸へ一番乗りを果たす。仇と狙う吉良上野介義央が自らず焦りが増すなか、台所近くの炭小屋を探索し吉良を発見、その功として吉良の首を上げた。その後、泉岳寺にある... 続きを読む
武林唯七
たけばやしただしち
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。唯七は通称で、名は隆重(たかしげ)。祖父は帰化中国人の孟二寛で、祖をたどれば孟子にいきつく。赤穂藩士・渡辺式重の次男として生まれ、兄が渡辺家を継ぎ、弟の唯七は祖父がかつて使っていた「武林」を家名として分家した。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、唯七は江戸にいたが赤穂に戻りすぐに義盟に加わった。その後、江戸へ戻ると堀部安兵衛らと江戸急進派として活動した。兄も当初、義盟に参加し江戸急進派のひとりとして活動していたが、両親の病によりやむなく脱盟している。兄の脱盟もあり仇討ちを焦る唯七はなかなか動こうとしない大石内蔵助に業を煮やし上京すると... 続きを読む
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1703年に起こった事件・出来事
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- 1703年00月00日 近松門左衛門、代表作『曽根崎心中』を発表
- 1703年01月30日 赤穂事件。大石内蔵助ら47人が吉良上野介を討った
- 1703年03月20日 赤穂浪士、討ち入りの罪により切腹する
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