【写真あり】江戸時代の刺青を徹底紹介!罪人に彫られた入墨刑が恥ずかし過ぎる

  • 更新日:2022年4月2日
  • 公開日:2016年12月14日

刺青(いれずみ)というと“アウトロー”のイメージがあり、近年、温泉やプールでは入場禁止になることも。また、就職や婚活の障害になることもあり賛否両論を巻き起こしたりします。では、江戸時代の刺青文化はどのようなものだったのでしょうか?

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江戸時代の刺青 浮世絵(『当世四天王』落合芳幾 画)
勇ましくもろ肌脱ぎになったイケメン4人組。その白い肌には見事な刺青が(『当世四天王』落合芳幾 画)

古代日本では男性はみんな刺青をしていた!?


日本における刺青の歴史は古く、縄文~弥生時代には盛んに刺青が行われてました。古代日本について書いた中国の歴史書『魏志倭人伝』には、女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国の男性は誰もがみな体はもちろん顔にまで刺青を施していたと書かれています。

縄文・弥生時代の遺跡から発掘される土偶からも、当時の刺青文化をしのぶことができます。

顔全体に刺青が施された縄文土偶(約3,000年前、岩手県の萪内遺跡)
岩手県の萪内(しなない)遺跡から発掘された約3,000年前の縄文土偶。顔全体に刺青が施されているのがわかります
ちなみに、当時の刺青はファッションではなく、魔除け・呪術的な意味合いのものだったそう。

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奈良時代以降、中国から伝来した儒教の影響もあり刺青文化はすっかり廃れてしまうわけですが、一部では刺青文化が消えずに残りました。

たとえば、蝦夷地(現・北海道)に住んでいたアイヌの人々。

アイヌの刺青は精霊信仰と密接な関係にあり、独特の美しい文様が特徴です。特に、年頃の女性がする口の周りの刺青は有名で、人気漫画『ゴールデンカムイ』に登場するヒロインの祖母もしてますね。

アイヌ民族の刺青文化
アイヌ民族の刺青文化は幕府や明治政府から何度も禁止令が出されましたが、「刺青は神の象徴」として連綿と受け継がれました
また、琉球(現・沖縄県)の人々もユニークな刺青文化「ハジチ(針突)」を持っていました。これは女性のみに行われるもので手の甲や指に刺青を施しました。魔除け、死後の世界への手形、成人儀礼、美しさの象徴……などさまざまな意味があったそうです。

琉球地方のハジチデザインいろいろ
琉球地方のハジチデザインいろいろ
さらに、儒教と対立関係にあった密教の僧侶のなかにも刺青をしていた者がいて、書寫山圓教寺を開いた性空(しょうくう)というお坊さんは、胸に「阿弥陀仏」の刺青があったとも。ファンキー!

一説に、戦国時代には、雑兵らが指に自分の名前や住所を刺青していたともいわれています。野垂れ死にしても誰だかわかるようにということなのですが、いま彫るんだったらマイナンバーですね、わかります。

漁民の間でも魔除け的な意味合いとID的役割のため刺青が行われていたとか。

とまぁ、刺青文化は一部の人々によって細々と受け継がれていきましたが、表舞台にあがるのは江戸時代まで待たねばなりませんでした。長い冬の時代があったわけです。


刑罰の「入墨」とファッションの「彫り物」



そして、江戸時代の初め頃。まずは、侠客といった渡世人たちの間で、お守りとして「南無阿弥陀仏」などの経文を肩の先に彫ることが行われるようになりました。

侠客と刺青、という組み合わせはしっくりきますが、ちょっと意外な職業の人々も江戸時代初期の刺青文化を牽引しました。

それは、遊女たちです。

大坂や京など上方の遊女たちの間でブームとなったのが「起請彫り(きしょうぼり)」と呼ばれる刺青です。

これは、馴染み客への“愛の証”として、遊女が自分の上腕に客の年齢の数だけホクロの刺青を入れたり、「(客の名前)命」と相手の名前を体に刻み込むもの。「入れボクロ」ともいいます。

今でも恋人や家族の名前のタトゥーをする人がいますが、江戸時代からあったんですね。ただ、心が離れた時の後悔はハンパなさそうです。

『風俗三十二相』より「いたさう」(月岡芳年 画)
柔らかそうな二の腕に、愛する人の名前を刻み中の遊女。いたそ~(『風俗三十二相』より「いたさう」月岡芳年 画)
江戸時代中期、現代の「刺青=悪い・怖い」というマイナスイメージを決定づける出来事が起こります。罪人への刑罰のひとつに「入墨刑」が採用されたのです。

余談ですが、「いれずみ」という言葉を漢字で表記するとき、「刺青」「入墨」などの候補があがります。また、「いれずみ」のことを「彫り物(ほりもの)」ともいいますが、じつはそれぞれ意味が違いました。

まず、一般によく使われる「刺青」ですが、これは「入墨」の文章語で、日本文学史を代表する小説家・谷崎潤一郎の小説『刺青(しせい)』(明治43年)が有名になって以降、「いれずみ=刺青」となり、定着しました。なので、江戸時代には「刺青」という言葉はありません

次に「入墨」ですが、これは「体に針などで傷をつけ、そこに墨などをすりこみ文字や絵を描くこと」を意味し、「文身(ぶんしん)」ともいいます。江戸時代には「入墨」といえば罪人への刑罰として彫られる「いれずみ」を指しました

一方、自分で彫りたくて彫る「いれずみ」は「彫り物」と呼ばれました。上方では「彫り物」を「がまん」というなんともストレートな呼び方をしたとも。

まとめると、以下。ここ、テストに出ます。



  • 入墨=罪人への烙印

  • 彫り物=ファッション




現代では「刺青」も「入墨」も「彫り物」もごっちゃになってますが、歴史的に見るとぜんぜん別物だったのであります。

さて、話を「入墨刑(墨刑)」に戻しましょう。

入墨が罪人への刑罰として幕府により採用されたのは、八代将軍・徳川吉宗の時。大都市を中心に増加する犯罪を抑制するのが目的だったそう。

八代将軍・徳川吉宗の像(和歌山県立近代美術館)
江戸時代中期、幕政改革をいろいろやった働き者の暴れん坊将軍
「入墨刑」は刑としては軽いもので、軽い盗みを働いた罪人が追放刑や敲(たたき)刑に処せられるとオプションとして入墨を施されました。ちなみに、入墨刑を科せられるのは町人だけで武士には適応されませんでした。ちなみのちなみに、10両以上を盗むと死罪です。

“罪人の烙印”である入墨刑は、罪人がどこで犯罪をおかしたのかがわかるように、藩や地域によって入れる場所やデザインが異なりました

たとえば江戸だとこんな感じ。

罪人の烙印である入墨刑(江戸版)

左腕の肘下に9㎜(三分)ほどの太さの線が2本彫られました。結構、目立ちそう。

たとえば京だとこんな感じ。

罪人の烙印である入墨刑(京版)

左腕の二の腕に12㎝×9㎜ほどの長方形が2つ彫られました。湿布みたいでちょっと恥ずかしい……。

腕に彫られることが多かった「入墨刑」ですが、地域によっては顔面の場合もありました。

かなりインパクトがある顔面入墨刑をいくつかご紹介すると。

まず、高野山。

罪人の烙印である入墨刑(高野山版)

額に巨大なホクロ! いや、入墨。千昌夫かな? 心なしか罪人の表情に悲哀が漂っています。

お次は、肥前(現・佐賀県)。

罪人の烙印である入墨刑(肥前版)

わあ、ドストレート!!

バツって……。

犯罪はもちろんバツですが、それにしてもこんなでっかくバツって……。犯罪抑止力ありそうです

芸州(現・広島県)はもっとすごい。

罪人の烙印である入墨刑(芸州版)

初犯は額に「一」。わかりやすい。

再犯すると、

罪人の烙印である入墨刑(芸州版)、再犯の場合

画数がひとつ増えます。

で、反省もせず3回も罪を重ねると……

罪人の烙印である入墨刑(芸州版)、3回目の場合

ゲェーっ!!「犬」の入墨!!

これは恥ずかしいにもほどがある。絶対、「ほら、ワンって言えよ(ニヤニヤ」とからかわれます。3回も罪を重ねてはいけませんね(戒め)。

肉体系男子に大人気となった豪華絢爛&ユニークな刺青



庶民文化が花開いた江戸時代後期、刺青文化も最盛期を迎えます。

ポイントは、それまでワンポイントが主流だったのが、体全体に豪華絢爛な刺青をいれるようになったこと。キャンバスに見立てた背中を中心に腕や臀部、太ももにかけての広範囲に、まるで絵画のような豪華絢爛かつユニークな刺青を施すことが大ブームになりました。

このブームの火付け役の裏には、ある大ヒット小説があります。

それは、

ヒーローたちが活躍する中国の人気小説

『水滸伝』

その新訳本『新編水滸画伝』で、江戸時代を代表するベストセラー『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴が初編の文章を、天才絵師・葛飾北斎が挿絵を担当したのです。

『新編水滸画伝』部分(曲亭馬琴 文章、葛飾北斎 挿絵)
ヒーローたちを躍動感あふれるタッチで北斎が描く。登場人物には見事な刺青が
さらに約20年後、幕末の“奇想の絵師”歌川国芳が『水滸伝』のヒーローたちを描いた浮世絵シリーズ『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(ひとり)』を発表。

『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』より「浪裡白跳張順」(歌川国芳 画)
『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』より「浪裡白跳張順」。シリーズを代表する1枚で、褌一丁のマッチョボディには鮮やかな刺青が。火を噴く龍、という勇ましいデザイン

『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』より「病大蟲節永」(歌川国芳 画)
同シリーズより「病大蟲節永」。背中から腕、太ももまでびっしり刺青。筋骨隆々の背中には、ニラミをきかせた龍が彫られている
『水滸伝』のヒーローたちの全身に色鮮やかに彫られた美しい刺青は、見る者を魅了し、刺青のデザインに大きな影響を与えました。また、浮世絵の技術が取り入れられ彫師の技術も向上、洗練された芸術的な刺青を全身に施すことが可能になりブームに拍車をかけました。

特にこぞって体に刺青をしたのは町火消や飛脚、駕籠(かご)かき、魚屋、大工などといった肉体労働の男性たち。肌を露出することの多かった彼らは、男の「粋」と全身に刺青を施す苦痛に耐えた「勇気」「男気」をインパクトのある刺青で誇示したわけです。

『江戸の花子供遊び』「八番組加組」(歌川芳虎 画)
『江戸の花子供遊び』「八番組加組」(歌川芳虎 画)
こちらは江戸の町を火事から守る町火消。命がけで火と戦う勇ましい町火消に刺青は欠かせないもの。鎮火活動が終わり、サッと火消装束を脱いだらあらわれる背中一面の刺青。一説に、焼死しても誰かわかるように刺青を彫ったとか。

江戸時代の大工(『童謡妙々車わらべうたみょうみょうぐるま』より)
『童謡妙々車わらべうたみょうみょうぐるま』より
こちらは仕事中の大工さん。ちょっとわかりにくいですが、画像左、鉋(かんな)をかけている男性の腕には満開の花が。高所で作業をする鳶(とび)も刺青を入れている人が多かったようです。

刺青を入れた褌一丁の飛脚(明治時代 撮影)

こちらは褌一丁の飛脚。明治時代に撮影されたと思われる写真です。引き締まった肉体に刺青が映えます。

肉体系男子にファッションとして大流行した刺青ですが、刑として入墨を彫られた前科者がそれを隠すために大きな刺青を彫ることもあり(広島のように顔に彫られたらどうにもなりませんが...)、幕府はたびたび刺青禁止令を出しましたが、効果はあまりなく、むしろ刺青ブームは武士階級にまで広がっていくわけであります

主に浪人や旗本・御家人の次男、三男といった、どちらかというと“ちゃんと”していない武士たちが中心でしたが、なかには一万石のれっきとした大名にも刺青を入れる者がいたとか。
「刺青を入れた武士」というと、パッと思いつくのが「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねぇ!」のタンカでおなじみ“遠山の金さん”こと名奉行・遠山金四郎景元ではないでしょうか。

桜吹雪の刺青をみせる遠山の金さん

しかし、これはあくまでドラマのなかのお話で、金さんが刺青を入れていたことを歴史的根拠を示す文献はありません。とはいえ、若い頃はかなりヤンチャだった金さん。“若気の至り”で刺青を入れたのではという説もあります。ただ、その刺青は桜吹雪ではなく、「女の生首」説、「桜の花びら1枚だけ」説など諸説様々。一体、本当のところはどうだったのかとっても気になります。

金さんと同じく「刺青の名奉行」として知られるのが、珍談・奇談を集めた随筆集『耳嚢(みみぶくろ)』の作者としても有名な根岸鎮衛(やすもり)です。

鎮衛は下級武士から南町奉行にまで出世したシンデレラボーイなのですが、やはり無頼だった若い頃に刺青を入れたという説があり、そのデザインは赤鬼だったとも。ですが、金さんと同じく噂の域を出ません。ザンネン。

ほかにも、現代では考えられませんが歌舞伎役者も刺青を入れていました

『江戸の花勇み揃 中村芝翫』(豊原国周 画)
『江戸の花勇み揃 中村芝翫』豊原国周
こちらは幕末の歌舞伎役者・中村芝翫(しかん)を描いた浮世絵ですが、着物から見事な刺青がチラ見えしています。

御あつらへ三色弁慶(幕末の浮世絵師・歌川豊国(三代)の画)
『御あつらへ三色弁慶』三代歌川豊国 画
こちらも江戸時代後期の人気歌舞伎役者を描いた浮世絵。ポージングのカッコよさ、刺青の艶やかさ、背景の斬新さに目を奪われます。

また、刺青が歌舞伎の舞台のなかで重要な役割を果たすこともありました。

『豊国漫画図絵』「弁天小僧菊之助」(歌川国貞 画)
『豊国漫画図絵』「弁天小僧菊之助」歌川国貞 画
これは、人気の歌舞伎演目『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称「白浪五人男」)に登場する女装した美貌の大泥棒・弁天小僧菊之助。この弁天小僧、正体がバレた時に、「知らざぁ言って聞かせやしょう」から始まる名口上を述べながら女装を解いていくのですが、白い肌に浮かぶ鮮やかな桜の刺青が現れるシーンは舞台の見どころのひとつとなっていました。

こうした舞台の影響で刺青を彫る者も結構いたことでしょう。

このように大流行した刺青は多数の浮世絵にも描かれています。いくつかご紹介します。

『近世水滸伝』「竹垣の虎蔵」(三代歌川豊国 画)

まずは、『水滸伝』のヒーローたちを日本の侠客に見立てたシリーズ『近世水滸伝』(三代歌川豊国)より「竹垣の虎蔵」。その名の通り、竹と猛々しい虎がデザインされた刺青となっています。なんだか虎が耳元にささやきかけているようにも見えますね。

『近世水滸伝』「競力富五郎」(三代歌川豊国 画)

お次も『近世水滸伝』より「競力富五郎」。インパクト大の龍の着物から、同じく龍の刺青が見えるというダブル龍。龍は刺青デザインの定番でした。

『近世水滸伝』「ましらの源次」(三代歌川豊国 画)

こちらも『近世水滸伝』より「ましらの源次」。左腕に孫悟空の刺青、というのもユニークですが、さらに個性的なのが右腕に孫悟空の口から吐き出された分身たちがいること。両腕でひと続きのデザインになっているなんて、只者じゃない感がすごい。

『神田の金吉 河原崎権十郎』(歌川国周 画)
『神田の金吉 河原崎権十郎』歌川国周 画
これは幕末の役者絵。牡丹の花も刺青デザインの定番ですが、着物の花柄と相まってとっても華やか。背景のポップさにも目が奪われます。

『倶利迦羅金剛伝 朝比奈藤兵衛』(二代歌川国貞 画)
『倶利迦羅金剛伝 朝比奈藤兵衛』二代歌川国貞 画
最後も幕末の役者絵。刺青のデザインはなんと異境に住むという伝説の人種・手長足長族。腕の長さに合わせて、足長の長~い足が彫られているシャレのきいたデザイン。お腹にいるのは鎌倉時代の猛将・朝比奈三郎。色んな伝説のある人で戯曲化されたり巨人化されたりする人気者です。

こうした芸術的な刺青を全身に彫るにはかなりの肉体的苦痛と相当な金額がかかりました

一度に全部を彫りあげることはできなかったため、何回分にも小分けして作業は進められました。一説にその料金は、彫り1回あたり金1分(約2万円)ほどで、全体を彫るには5~7両(約40~56万円)くらいという大金がかかったとも。

彫る人のランクによって価格もピンキリだったとは思いますが、それにしても結構なお金が必要だったでしょうに、町人のみなさんはどうやってお金の工面をしたんでしょうか。気になるところです。

『腕雕一心命うでのほりものいっしんいのち』(式亭三馬 作)
彫師が今まさに刺青を施しているところ(『腕雕一心命うでのほりものいっしんいのち』式亭三馬 作)
江戸時代後期に大ブームとなった刺青ですが、時代は変わって明治時代になると、“近代国家”の仲間入りを目指す明治新政府によって刺青は「悪しき風俗」として全面禁止されます。刺青が再び解禁されるのは戦後の1948年(昭和23年)まで待たねばならず、長く非合法の存在となったわけです。

おもしろいことに、日本国内で禁じられた刺青は、高い技術と芸術性から海外で注目を集め、英国のジョージ5世とアルバート皇子が来日した際に刺青を入れたとも。

刺青男性のブロマイド1/3(明治時代 撮影)
画像引用元:長崎大学附属図書館
刺青男性のブロマイド2/3(明治時代 撮影)
画像引用元:長崎大学附属図書館
刺青男性のブロマイド3/3(明治時代 撮影)
画像引用元:長崎大学附属図書館
これらは明治時代に撮影された写真です。こうした刺青男性のブロマイドは外国人のお土産としても人気があったのでしょう。現代風にいえば「クールジャパン」として日本の刺青は外国人のハートを掴んだのです。

江戸時代の刺青は現代とはずいぶん立ち位置も意味合いも違ったようです。

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パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。