江戸ブログの記事をYouTubeに引っ越しました!
チャンネル登録をお願いします!

企画展『江戸の宝くじ「富」ー一攫千金、庶民の夢ー』は2019年2月24日まで開催。なお入館は無料!!
入館にちょっとドキドキ。貨幣博物館ってどんなところ?
貨幣博物館は東京日本橋三越のすぐ近くにあるお金をテーマにした博物館。最寄り駅は三越前駅。
その外観は見るからに堅牢で気持ちが引き締まります。そしてほかの博物館とちょっと、いやだいぶ違うのは、入館前にまるで空港のような厳重な手荷物チェックがあること。
本物の金貨などが展示してあるためでしょうね。なんだかドキドキしました。
常設展示と企画展示がワンフロアにされており、常設展示では古代から現代までのお金の歴史を学ぶことができます。レプリカですが天正大判を持つこともできます。これが結構重たいし、大きくてビックリします。
さて、本日の目的である企画展コーナーへ行ってみましょう。
スポンサーリンク
ルーツから広がりまでわかりやすい解説
江戸時代の富くじについては以前の記事に詳しいので、展示に沿ってざっと紹介していきます。
まず、「富くじ(富、富突き)」とはひと言でいうなら「江戸時代版宝くじ」。「富札(とみふだ)」という抽選券を購入し、当選金を当てるギャンブル興行で江戸時代後期に大ブームを巻き起こしました。
江戸時代に大ブームとなった富くじはギャンブルでしたが、もともとは宗教行事の一種。江戸時代初期に摂津国(現・大阪府)にある箕面山龍安寺や山城国(現・京都府)にある鞍馬寺などが発祥といわれています。

摂津のガイドブック『摂津名所図会』に描かれた龍安寺での富突(とみつき)のようす。
この当時、当選者にもらえるのはお金ではなくありがたいお守りで、「富会(とみえ)」と呼ばれる新年の縁起物行事だったのです。
やがてこの方法が江戸や上方でギャンブルとして興行化、「楽して大金をゲットしたい!」という人間の心理を煽りまくり大人気となります。そのギャンブル性の高さと一か所に大勢の人が集まるなどの理由から幕府は何度も禁止令を出しました。
しかし、江戸時代中期、“暴れん坊将軍”でおなじみ八代将軍・徳川吉宗が「寺社だけは富くじしてもいいよ」という方針を打ち出します。
というのも、当時の幕府は財政難で寺社の修復にかかる助成金を出す余裕がなくなっていたため、富くじ興行を寺社に許可する代わりにその収益金で修繕費を賄わせようとしたわけです。頭いいですね〜。
この幕府の許可を得て寺社が行った富くじ興行は「御免富(ごめんとみ)」と呼ばれ、最盛期である1810年〜40年代には、2〜3日に1度は江戸のどこかの寺社で御免富が開催されるまでになりました。

『東都歳事記』に描かれた谷中感応寺の富くじ興行。谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は「江戸の三富」と呼ばれ特に大勢の人が集まった。
貴重な展示品にワクワク!
こちらの浮世絵を見てください。

『萬々両札のつき留』
中央に大きな箱があり、難しい顔をした男性が木の棒を振り上げています。手前にはなにやら興奮気味な大勢の人々が。これはまさに富くじ抽選会が行なわれているようすを描いたもの。「当たりは拙者でござる〜」「よろしくお願いします!」と大騒ぎ。
こちらに描かれた富突き道具の本物も展示されていました。

貨幣博物館所蔵
これらは江戸時代後期に実際に使われていたものです。
中央の木の箱が「富箱」。写真では見たことあったんですが実物を見ると大きさもかなりあり、ずっしりと重たそうです。目測ですが縦50㎝、横60㎝、幅40㎝くらい? みんなの夢が詰まってる感ありました。
上部に穴があり、ここに画像右の巨大な錐(きり)を突き入れました。この錐もかなりの長さで100㎝くらいはあったと思います。目測ですが。
画像手前にあるのが「富駒(とみこま)」という縦5㎝、横1㎝ほどの小さな木札。販売された「富札」と同じ番号が書いてあるこの富駒が富箱に入っており、先ほどの錐で刺すのです。実際の富駒には錐で突いた跡である穴のあるものもあり、(あー、この番号の人は当選したんだなぁ)と感慨深くなりました。

錐の先に富駒が刺さっているのがわかる(『萬々両札のつき留』の部分拡大)
富箱もいろいろなタイプがあったようで、こんな回転式のものも展示されていました。

回転式の富箱(貨幣博物館所蔵)
両側の出っ張りを軸にぐるぐる回して使ったようです。あれですね。年末なんかによく見る、ガラガラくじに似てますね。
当たる「富札」は占いで選ぶ!?
さて富くじに参加するには抽選券である富札を購入しないことには始まりません。宝くじを宝くじ売り場で買うのと同じく、富札も富札売り場で買うことができました。購入できる場所は、富くじ興行が行われる寺社の門前にある茶屋のほか、「札屋(ふだや)」と呼ばれる富札専門店。

『當世名物鹿子神社佛閣の一乃富』渓斎英泉 画
こちらは札屋の店先。女性の目線の先には興行地別に分類された富札がずらりと棚に並べられています。「茅場町」「福徳稲荷」「両国」などの文字が見えます。
現代の宝くじは1枚300円と気軽に購入できる値段ですが、江戸時代の富札は1枚の値段がものすごく高い。
場所によってばらつきはありますが、富札1枚のお値段が金1朱〜金2分だったそう。ざっくり1両=8万円で考えると富札1枚が1万円から2万円くらいしたわけで、庶民にとってはまず参加するだけでハードルが高い。
そのため、興行主や札屋は庶民が買いやすいように共同購入用の富札「割札(わりふだ)」をつくって販売することもありました。
また、札屋の店先ではある程度、富札の番号を選ぶことができたそう。富札そのものが高額ですから購入者は番号選びに必死になったことでしょう。
そこで、富札を買う吉兆を占う占い本なども出版されました。数字による占い「四目録」や夢を見た時間帯で買うべき富札番号を占う夢占い、富札を買うべき日はこれだ! など情報満載です。

富札の実物。なにやら判がたくさん押してあるが、これは興行場所、開催時期、組名などを示したもの。縁起のいい模様などの判もある。さまざまな判を押すことで偽造防止にもなったそう(貨幣博物館所蔵)
興行主も富札を売るのに必死
富札を販売する前に、寺社など富くじ興行の主催者は「富仕法書」というもので「この日にこの場所で富くじ開催しますよー」と宣伝をしました。

貨幣博物館所蔵の富仕法書
これが富仕法書です。
主催者、会場、富札の値段、組名と発行枚数、当選本数、当選金などが書かれています。この時の最高金額は1,000両だったようですね。およそ8,000万円といったところでしょう。
びっくりすることに当時からすでに前後賞がありました。当時は「両袖」と呼ばれていたのですが、江戸時代から前後賞があったなんて驚きですよね。
この富仕法書に書かれた内容にしたがって興行ごとに富札が発行され販売されたわけですが、富札の売れ行きが興行の成功を左右したため、興行主のなかには富札の販売促進を図るものもいたそう。
富札の仲買である札屋に対して売った枚数に応じて報奨金を出したり、当たり富札を売った際に報奨金を出したり……などなど。買う側も必死だったけど、売る側も必死だったんですね。

「江戸三富」のひとつ湯島天神の風景画。画像右にあるお店は札屋で、「千両」と書かれた紙や棚に並ぶ富札が見える。(『江都名所 湯しま天神社』歌川広重 画)

地方へ広がる富くじブームと終焉
1810年〜40年代、江戸や上方などの都市部で大ブームとなった富くじですが、「御免富」の乱立によって富札の売り上げが低迷、興行が失敗する寺社も増えていきました。
その一方、「影富(かげとみ)」と呼ばれる幕府非公認のアングラギャンブルが台頭しました。これは富くじの当選番号を当てる私的ギャンブルで、個人が勝手に富札をつくり、それをものすごい低価格で売り、購入者もこっそり買いました。
当選金額は大したものではないものの少額の賭金で参加できる影富に庶民が飛びつき大流行したのです。
正規の富くじ興行は赤字続き、違法な富くじ興行は大流行とあっては幕府が黙ってはいません。ついに1842年(天保13年)に富くじは全面禁止となりました。
ところがこれで終わらないのが富くじブーム。
幕府によって全面禁止になったあとも地方では富くじ興行が行われました。江戸時代後期に庶民の間に起きた旅行ブームも富くじ興行が地方へ広がった要因になったそうな。

熊本の藤崎社で行われた富くじ興行のようす。大勢の人でにぎわっている(『熊本藤崎社千両富場之図』)
そして時代は変わって明治時代。
明治新政府は太政官布告で富くじの禁止を明言します。その内容をざっくり述べると「富興行はもともと御禁制であったが今後も厳禁とする。楽して儲けたいという考えをあおり、農工商の仕事を怠らせ、破産させてしまうから」というもの。正論です。
これで本当の本当に富くじ興行は終わりを迎えました。
が、まだ終わらない。
明治になっても今度は外国人居留地でカタチを変えた富くじ興行が行われていたのだとか。

国内にあった外国人居留地のひとつ横浜の光景(『横浜外国人行烈之図』一川芳員 画)
居留地での興行は江戸時代のものとは異なり、表向きは商品の入札。例えば当選者に当たるのは反物で、その反物が換金できるというシステムになっていたのです。ちなみに、展示されていた居留地の富札は多色刷りでとてもおしゃれな感じでした。
こうしてたくましく続けられた富くじ興行は、宝くじとして現代にも生き続けているのです。
関連記事はこちら
・「宝くじのルーツ、江戸時代の禁止ギャンブル「富くじ」とは【1等いくら?】」
・「老若男女が熱狂した江戸時代のギャンブル! 禁止の裏で流行した賭博が種類豊富」
・「江戸時代には3種類のお金があった!? 今とは違う意外なお金事情とは【円にも換算】」
江戸ブログの記事をYouTubeに引っ越しました!チャンネル登録をお願いします!
パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?
1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。
(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。
(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。
江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?
パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。
「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。