興行主も富札を売るのに必死
富札を販売する前に、寺社など富くじ興行の主催者は「富仕法書」というもので「この日にこの場所で富くじ開催しますよー」と宣伝をしました。
これが富仕法書です。
主催者、会場、富札の値段、組名と発行枚数、当選本数、当選金などが書かれています。この時の最高金額は1,000両だったようですね。およそ8,000万円といったところでしょう。
びっくりすることに当時からすでに前後賞がありました。当時は「両袖」と呼ばれていたのですが、江戸時代から前後賞があったなんて驚きですよね。
この富仕法書に書かれた内容にしたがって興行ごとに富札が発行され販売されたわけですが、富札の売れ行きが興行の成功を左右したため、興行主のなかには富札の販売促進を図るものもいたそう。
富札の仲買である札屋に対して売った枚数に応じて報奨金を出したり、当たり富札を売った際に報奨金を出したり……などなど。買う側も必死だったけど、売る側も必死だったんですね。
地方へ広がる富くじブームと終焉
1810年〜40年代、江戸や上方などの都市部で大ブームとなった富くじですが、「御免富」の乱立によって富札の売り上げが低迷、興行が失敗する寺社も増えていきました。
その一方、「影富(かげとみ)」と呼ばれる幕府非公認のアングラギャンブルが台頭しました。これは富くじの当選番号を当てる私的ギャンブルで、個人が勝手に富札をつくり、それをものすごい低価格で売り、購入者もこっそり買いました。
当選金額は大したものではないものの少額の賭金で参加できる影富に庶民が飛びつき大流行したのです。
正規の富くじ興行は赤字続き、違法な富くじ興行は大流行とあっては幕府が黙ってはいません。ついに1842年(天保13年)に富くじは全面禁止となりました。
ところがこれで終わらないのが富くじブーム。
幕府によって全面禁止になったあとも地方では富くじ興行が行われました。江戸時代後期に庶民の間に起きた旅行ブームも富くじ興行が地方へ広がった要因になったそうな。
そして時代は変わって明治時代。
明治新政府は太政官布告で富くじの禁止を明言します。その内容をざっくり述べると「富興行はもともと御禁制であったが今後も厳禁とする。楽して儲けたいという考えをあおり、農工商の仕事を怠らせ、破産させてしまうから」というもの。正論です。
これで本当の本当に富くじ興行は終わりを迎えました。
が、まだ終わらない。
明治になっても今度は外国人居留地でカタチを変えた富くじ興行が行われていたのだとか。
居留地での興行は江戸時代のものとは異なり、表向きは商品の入札。例えば当選者に当たるのは反物で、その反物が換金できるというシステムになっていたのです。ちなみに、展示されていた居留地の富札は多色刷りでとてもおしゃれな感じでした。
こうしてたくましく続けられた富くじ興行は、宝くじとして現代にも生き続けているのです。
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