• 更新日:2017年8月18日
  • 公開日:2016年6月27日



近年、若い人を中心に刀剣人気が高まっていますが、動乱の幕末期、刀に魅了され、作刀に命をかけた若き天才刀工がいました。

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抜群の腕前とドラマティックな人生で人気を集める幕末の天才刀工

刀工・源清麿(みなもと きよまろ)

源清麿の最高傑作といわれる太刀と脇差
清麿が35歳の時の作品で、源清麿の最高傑作といわれる太刀と脇差。(「刀 号 一期一腰の大/脇指 号 一期一腰の小 銘 源清麿/嘉永元年八月日」)。画像引用元:ADB
源清麿(本名・山浦環<たまき>)は、江戸時代も後期の1813年に信濃国小諸藩赤岩村(現・長野県東御市)にて名主の次男として誕生しました。

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刀工を目指していた兄の影響で刀に興味を持つようになり、ともに修行に励み、18歳で手がけた処女作は兄との合作だったといいます。

その後、婿養子に入り息子も誕生した清麿でしたが、刀への思いはつのるばかり。ついに刀工として生きるため単身江戸へ出ることを決意します。

江戸へ出た清麿は、軍学者にして剣術家でもある幕臣・窪田清音(すがね)の門を叩きました。清麿の刀工としてのただならぬ才能を見抜いた師の計らいで専用の鍛冶場を用意してもらった清麿は、作刀に没頭します。

四谷に住んでいた清麿を鎌倉時代の名刀・正宗になぞらえ、人々は「四谷正宗」と呼んだとか。

しかし、突如、江戸を出奔、清麿が向かったのは長州の萩(現・山口県萩市)でした。一説に長州藩家老・村田清風に招かれたともいわれていますが長州行きの理由は不明です。ここで2年を過ごし、数々の名刀を残した清麿は、再び江戸へ戻ります。

良質な鉄を生かす熟練の腕により生まれる地鉄(じがね)のおもしろさ、華やかで躍動感に満ちた刃文(はもん)、美しいだけでなく切れ味もすさまじい……他の刀工と一線を画した清麿の刀は人気を博し、当代きっての名刀工となりました。

しかし人気絶頂のさなか、1855年(嘉永7)、清麿は四谷の自宅で自ら命を絶ったのです。理由については、若い頃の酒毒がたたって思うように作刀ができなくなったことを悲観して、とも囁かれますが、真相は今も藪の中。42歳の秋のことでした。

ちなみに、テレビ番組『開運 なんでも鑑定団』に清麿の脇差が出品されたことがあり(2014年8月12日放送)、結果は本物、鑑定額は700万円でした。

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