【教科書には載らない】江戸時代の名人・達人13人が道を極めすぎて格好良い 後編

  • 更新日:2017年8月18日
  • 公開日:2016年6月27日

江戸時代にはその道に通じた天才たちが大勢いました。卓越したテクニックと熱意で道を極めた13人の名人達人たちをご紹介。今回は後編です。

江戸ブログの記事をYouTubeに引っ越しました!
チャンネル登録をお願いします!

江戸時代の名人・達人13人の前編もあわせてどうぞ

スポンサーリンク


現世に苦しむ庶民を救うため、その僧は、北は北海道から南は奈良県まで全国を行脚し、64年の生涯で12万体ともいわれる途方もない数の仏像を彫りました。

8人目
微笑をたたえた素朴な仏像に祈りをこめて

仏師・円空
(えんくう)

円空仏「両面宿儺坐像」(岐阜県千光寺 所蔵)
岐阜県の千光寺が所蔵する円空仏「両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)」
東海地方出身の方なら円空の名を耳にしたことがあるかもしれません。円空が生まれたのは江戸時代前期の1632年のことで、美濃国(現・岐阜県)の出でした(出身地は諸説あり)。

その生涯については不明な点も多いのですが、若くして出家し、富士山などの霊山で修行をしたといわれています。

民衆を現世のさまざまな苦しみから救うため、円空は数多くの仏像を彫りました。菩薩像、阿弥陀像、薬師像、不動明王像……。俗に「円空仏」を呼ばれる円空の仏像の特徴は、荒削りともいえる野生的で素朴な彫刻と、慈愛に満ちた微笑みにあります。

仏師・円空の「円空仏」

1体でも多くの仏像を人々の手に――と考えた円空は、訪れた地の山野にある木を素材にあまり手数をかけず、木を割った断面や節などもそのままに多くの仏像を彫り続けました

円空仏は木を割った断面や節などもそのままに彫られている

円空は、やがて12万体の仏像を奉納することを発願すると、美濃国を拠点に全国を行脚しながら仏像を彫り続け、1690年には10万体の仏像をつくり終えたといいます。それから5年後、自坊の弥勒寺(岐阜県関市)にて即身仏(生きたまま食を断ちミイラになること)となったといいます。

千面菩薩の一部(円空作、愛知県名古屋市の荒子観音)
愛知県名古屋市の荒子観音に残る「千面菩薩(せんめんぼさつ)」の一部。1,200体にもなる仏像群で、小さいサイズの仏像はわずか2cm。



いまも昔も人気の相撲。谷風や小野川などの人気力士がいるなか、勝率9割6分2厘という脅威の成績を残した別次元の力士がいた。

9人目
生涯勝率.962の史上最強力士

雷電爲右エ門(らいでんためえもん)


『化粧回し姿 雷電為右衛門』(勝川春亭 画)
肋骨に隙間のない「一枚あばら」という特異体質の持ち主だったという伝説も。(『化粧回し姿 雷電為右衛門』 勝川春亭 画)
現役生活21年間のなかで土をつけられたのはたったの10回だけ――そんなちょっと信じがたいほどの強さを誇った力士がいました。

その名は雷電爲右エ門

本名を関太郎吉といい、1767年に信濃国(現・長野県)の豪農の子として生まれました。幼い頃から体も大きく怪力だったといわれ、怪力エピソードもさまざま残っています。

現役時代の体格は、身長197cm、体重172kgだったとか。これは引退した把瑠都関と同サイズであり、当時にしてみたらまさに巨人。手形も残っているんですが、長さ23cm、幅13cmとこちらも規格外。

17歳の時、地元に巡業に来ていた浦風に見出され入門した雷電は、江戸へ出て、当時のナンバーワン力士・谷風梶之助の預かり弟子となりました。もともと才能があったうえに谷風に6年間しごかれた雷電は、満を持して初土俵を踏むことになります。

「なにやらとんでもない力士がいるらしい」

雷電の評判は初土俵を踏む前から広く知れ渡り、デビュー前にして“不昧公(ふまいこう)”として知られる松江藩主・松平治郷(はるさと)のお抱え力士となりました。これはめちゃくちゃ異例のことです。

さらにいきなり「関脇」としてデビューしたのも異例中の異例。いかに雷電が周囲から期待されていたかが伺えます。

その期待に応えるどころか、期待以上の強さを発揮し、初土俵でいきなり優勝した雷電は、その後も勝ちを重ねていきました。あまりの強さに雷電だけ「張り手」「突っ張り」「かんぬき」「鯖折」を禁じ手にされたというのは有名な話(ですが真偽は不明)。

漫画『喧嘩稼業』の金隆山(木多康昭 漫画)
物語の力士キャラにおいて雷電をよくモデルにされます。漫画『喧嘩稼業』の金隆山(木多康昭 漫画)
無双の強さを誇った雷電は酒も強く、かなりの酒豪だったとか。さらに日記を残しており、教養の方もかなり高かったといわれています。44歳で現役を退いた雷電は後進の育成に尽力し、晩年は妻の生地で悠々自適に暮らしたそうです。もし平成の大横綱・白鵬と対戦したら……と想像するとワクワクしますね。

江戸時代にも可動式金属プラモデルがあった。戦乱のなくなった江戸時代、己が極めた技術を注ぎ込んだ意外な職業とは?

10人目
平和な時代に傑作を生んだ由緒ある甲冑師の家系

甲冑師・明珍派の人々


甲冑師・明珍吉久が作った鯉
明珍吉久作の鯉。まるで泳いでいるように鰭(ヒレ)が動く
明珍(みょうちん)というのはちょっと変わった苗字ですが、これは鎌倉時代(平安時代末期とも)から続いた由緒ある甲冑師の家系。江戸時代になると明珍派の甲冑師たちは全国各地で活躍しました。

たとえば、明珍吉久は江戸時代前期の人物で、越前国(現・福井県)明珍家の初代です。ちなみに、本姓は井手。残念ながらその生涯についてはよくわかっていませんが、代々、越前松平家のお抱え職人として活躍しました。

明珍派の甲冑師たちは、甲冑制作のほか、刀の鍔(つば)や火箸などの鉄製茶道具を手がけたほか、古い甲冑の鑑定なども行っていたようです。

戦がなくなり甲冑の仕事が減った平和な江戸時代。明珍派の甲冑師たちは、時代にあわせまったく新しい視点で己の高い技術を活かそうとします。

それが自在置物(じざいおきもの)

これは鉄や銀、銅といった金属で、鳥や魚、昆虫などの動物を造形したものなんですが、注目すべきは可動式であること。

関節や体節を研究し、各パーツを独立してつくることでまるで生きているかのように複雑かつなめらかな動きを可能にしたのです。明珍派の甲冑師が生み出した自在置物をご覧ください!

甲冑師・明珍宗清が作った伊勢海老
明珍宗清作の伊勢海老。とても精巧なつくりになっており、触覚や足も動く

甲冑師・明珍宗察が作った龍。確認されているものとして最古の自在置物
明珍宗察作の龍。明珍派の自在置物の代表格で、確認されているものとして最古の自在置物。全長135cmと巨大ながら優美な動きは驚くばかり。

この龍を所蔵している東京国立博物館が動画で「龍を動かしてみた」を公開しています。ぐにゃぐにゃ動きます。


ちなみに江戸時代の名人・達人(前編)で紹介した、最後の剣客・榊原鍵吉が挑んだ伝説の「天覧兜割り」。用意された兜はまさに明珍派が用意したものでした。

最後の剣客VS由緒ある甲冑師明治天皇の御前で行われた兜割りの結果については、前編をご覧ください。

近年、若い人を中心に刀剣人気が高まっていますが、動乱の幕末期、刀に魅了され、作刀に命をかけた若き天才刀工がいました。

11人目
抜群の腕前とドラマティックな人生で人気を集める幕末の天才刀工

刀工・源清麿(みなもと きよまろ)


源清麿の最高傑作といわれる太刀と脇差
清麿が35歳の時の作品で、源清麿の最高傑作といわれる太刀と脇差。(「刀 号 一期一腰の大/脇指 号 一期一腰の小 銘 源清麿/嘉永元年八月日」)。画像引用元:ADB
源清麿(本名・山浦環<たまき>)は、江戸時代も後期の1813年に信濃国小諸藩赤岩村(現・長野県東御市)にて名主の次男として誕生しました。

刀工を目指していた兄の影響で刀に興味を持つようになり、ともに修行に励み、18歳で手がけた処女作は兄との合作だったといいます。

その後、婿養子に入り息子も誕生した清麿でしたが、刀への思いはつのるばかり。ついに刀工として生きるため単身江戸へ出ることを決意します。

江戸へ出た清麿は、軍学者にして剣術家でもある幕臣・窪田清音(すがね)の門を叩きました。清麿の刀工としてのただならぬ才能を見抜いた師の計らいで専用の鍛冶場を用意してもらった清麿は、作刀に没頭します。

四谷に住んでいた清麿を鎌倉時代の名刀・正宗になぞらえ、人々は「四谷正宗」と呼んだとか。

しかし、突如、江戸を出奔、清麿が向かったのは長州の萩(現・山口県萩市)でした。一説に長州藩家老・村田清風に招かれたともいわれていますが長州行きの理由は不明です。ここで2年を過ごし、数々の名刀を残した清麿は、再び江戸へ戻ります。

良質な鉄を生かす熟練の腕により生まれる地鉄(じがね)のおもしろさ、華やかで躍動感に満ちた刃文(はもん)、美しいだけでなく切れ味もすさまじい……他の刀工と一線を画した清麿の刀は人気を博し、当代きっての名刀工となりました。

しかし人気絶頂のさなか、1855年(嘉永7)、清麿は四谷の自宅で自ら命を絶ったのです。理由については、若い頃の酒毒がたたって思うように作刀ができなくなったことを悲観して、とも囁かれますが、真相は今も藪の中。42歳の秋のことでした。

ちなみに、テレビ番組『開運 なんでも鑑定団』に清麿の脇差が出品されたことがあり(2014年8月12日放送)、結果は本物、鑑定額は700万円でした。

巨大和時計、からくり人形、人力飛行機、五角形の謎の建築物……。稀代の発明家でもあった村の庄屋は、次々に発明品を生み出し村人たちを驚かせ続けました。

12人目
庄屋と発明家の二足のわらじ!?

“からくり伊賀七”こと飯塚伊賀七(いいづか いがしち)


からくり伊賀七こと飯塚伊賀七の肖像画
伊賀七の肖像画。74歳で生涯を終えるまで発明を続けました
常陸国筑波郡新町村(現・茨城県つくば市谷田部)に生まれ、生涯を谷田部で過ごし「谷田部に過ぎたるもの」と讃えられた稀代の発明家がいました。その名は飯塚伊賀七。村人たちは尊敬を込め「からくり伊賀七」と呼んでいました。

伊賀七が生まれたのは1762年(宝暦12)の春のこと。代々庄屋を務める裕福な家庭に生まれ育った伊賀七は、幼い頃から発明に興味を持ち、勉強熱心で、和算や蘭学、建築学、地理学、暦学など幅広い学問を習得しました。

家督を継いで庄屋として活動する一方、発明家として多くの発明品を生み出しました。どんな発明品があったのか?

たとえば、からくり人形。自宅から近所の酒屋や豆腐屋に買い物に行って帰ってくることができたというから、これはもはやペッパー超えてます。残念ながら人形本体は残っていないのですが……。

またたとえば、人力飛行機。一説に、大きな羽を数枚重ねたもので、ペダルを踏むと羽ばたくようになっていたとか。筑波山から飛行実験をしようと藩主に願い出たが「それ、人心を惑わす」との理由で許可されなかったそう。こちらも残念……。(空を飛行することについては、ライト兄弟よりも100年早く飛んだ鳥人・浮田幸吉もやはり騒乱の罪で捕らえられています)

さらに、和時計。これがかなりの優れもので、朝夕に太鼓や鐘、笛の自動演奏で村人たちに時刻を知らせただけでなく、自宅の門扉も自動開閉できたのだとか。

また、建築にも優れた技術を見せ、当時難しいといわれていた五角形の建築物(通称:五角堂)は伊賀七の代表作のひとつです。そのほか、現代の地図にも劣らないほどの精度を持つ地図を制作するなどマルチな才能を発揮しました。

現在、つくば市は「ロボットの街つくば」を提唱していますが、その原点として伊賀七が紹介されるなど今も伊賀七は地元で愛され続けています。

からくり伊賀七こと飯塚伊賀七が発明した巨大な和時計
伊賀七が発明した巨大な和時計(復元)。高さはなんと2m!画像引用元:wikipedia

江戸時代から続く指物師の4代目は、伝統と技術、江戸っ子の粋を小さな世界に込め、究極ともいえるミニチュアの芸術を完成させました。

13人目
近代ミニチュア職人の第一人者

小間物職人・小林礫斎
(こばやし れきさい)


小林礫斎の写真
ミニチュア制作に没頭する小林礫斎。画像引用元:たばこと塩の博物館
最後にご紹介するのは江戸時代の人ではありませんが、江戸時代の職人の技術と心意気を現代に伝えた人物でした。

その名は小林礫斎。

本名は小林夏太郎といい、江戸時代から続く指物師・礫斎の3代目の長男として1884年(明治17)に東京の下町は浅草で誕生しました。ちなみに指物師とは箪笥(たんす)や机など木製家具をつくる職人のことです。

将来の4代目として幼い頃から父に職人としての技術を学び、15歳の若さで一人前の職人としてスタートした礫斎は、主に煙草入れにつける根付(ねつけ)や煙草盆などを制作して生計を立てていましたが、時代の変化とともに和装向けの商品は需要が減り、糊口をしのぐための余技として観賞用のミニチュアを手がけるようになったといいます。

礫斎のミニチュアは“玩具”の域を超えた芸術品でした。本物をそのまま忠実に極限まで小さくしただけでなく、箪笥の抽斗(ひきだし)はちゃんと開閉するし、4㎜ほどの小さな独楽(こま)は回すこともできるなどおどろくような仕掛けが施されていました。

礫斎のミニチュアは国内だけでなく外国人も魅了し、あのヘレン・ケラーも来日した際、礫斎のミニチュアを買ったそうです。

象牙でできたミニチュアの箪笥(小林礫斎 作)
象牙でできたミニチュアの箪笥。右の米粒と比べるといかに小さいかがよくわかる。米粒より小さい抽斗もちゃんと開く!

極小サイズの硯箱(小林礫斎 作)
縦およそ4cm、横およそ3cmという極小サイズの硯箱。なかにはさらに小さな筆や硯も。箱の装飾もステキ。画像引用元:たばこと塩の博物館

江戸時代に活躍した名人や達人は今につながる人物も多く、興味深いですね。

あわせてどうぞ→
【教科書には載らない】江戸時代の名人・達人13人が道を極めすぎて格好良い 前編
【学校では教えない】江戸時代の奇人変人 12人の生き方が自由すぎる【当時から有名】

江戸ブログの記事をYouTubeに引っ越しました!チャンネル登録をお願いします!

パンツを着用しない時代、女性の下着はどんなもの?

銀ブラをする昭和の女性1963年(昭和38年)昭和の女性が、洋装で銀ブラ。和装から洋装への大転換は日本文化にとって大事件でした。[fluct device=PC num=0][fluct device=SP num=0]さて江戸時代、男性の下着は安定のふんどしですね。女性たちは下着としてどのようなものを使用していたかといいますと、それがこれ。『水鶏にだまされて』石川豊信 画(『水鶏にだまされて』石川豊信 画)「湯文字(ゆもじ)」と呼ばれる四角い布です。今でいう「腰巻(こしまき)」。ヒモがついており、巻きスカートのように腰に巻きつけて使用しました。長さは膝より少し下くらいまで。うっかり裾がペラリと開くと陰部が見えてしまうので、そんなことがないよう下着の4ヵ所にはおもりが入っていたとか。素材は木綿で、色は白もしくは緋色。年配女性は浅黄(あさぎ)色が多かったそうです。さらに、湯文字の上に「蹴出(けだし)」というものを着用しました。「裾よけ」ともいいます。これは今でいう「ペチコート」で、歩く際に湯文字がチラ見えするのを防いだり、着物の裾さばきをよくするために使用されました。長さは湯文字より長く、足首までありました。湯文字と異なり蹴出は「見せ下着」、むしろ見られることを意識した下着のため華やかな柄の布が使われ、女性の足元をより色っぽく見せるのに一役買っていました。『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画(『浮世名異女図会(うきよめいしょずえ)』「江戸町芸者」歌川国貞 画)美しい芸者の足元を見ると緋色の蹴出がチラ見え。足の白さと赤い下着の組み合わせの色っぽさ。ちなみに農村部などでは湯文字を使用することもなく完全に「ノー下着」だったそうです。ですので、作業中に「よっこいしょ」と腰をかがめたりすると陰部が丸見えになる、というのは、農村によくあるのどかな風景でした。


江戸時代からナプキン派、タンポン派にわかれていた!?

パンツを着用しなかった時代。ふと頭に浮かぶ疑問は「江戸時代の女性たちは、生理のときどのように処理していたのか?」。現代にあるナプキンやタンポンといった便利な生理用品。ナプキンの原型ともいえる「アンネナプキン」が発売されたのは、わずか50年前、昭和38年(1961年)のことでした。お年寄りが生理のことを「アンネの日」というのはこれに由来しています。「アンネナプキン」発売の広告「アンネナプキン」発売の広告。キャッチフレーズ「40年間お待たせしました!」は、アメリカで使い捨てナプキンが発売されてそれに遅れること40年にしてついに発売、ということを意味しています。[fluct device=PC num=1][fluct device=SP num=1]さて、ナプキンなどがない江戸時代、女性は生理になると前垂れのあるふんどし状の布で押さえていたそうです。これは見た目が馬の顔に似ていることから「お馬」とも呼ばれていました。この「お馬」のなかに再生紙やボロ布を折りたたんだものを入れ、陰部にあてがってナプキンのようにして使用しました。布は洗って何度も使ったとか。また、再生紙や布を丸めて膣に詰め込んだりすることもあったそうです。今でいうタンポンみたいな感じですね。再生紙や布を使うのは都市部のこと。農村部では綿など柔らかな植物を陰部にあてがったり、膣に詰め込んだりしていたといわれています。また、生理期間中は血による“穢れ(けがれ)”を忌み、家族と接しないよう「月経小屋」と呼ばれる場所で生活したとか。ちなみに、これは確認しようがないので定かではありませんが、一説には、江戸時代の女性たちは現代女性に比べインナーマッスルが発達していたため、経血を膣内にためておいて用をたす際に排泄したとも。今風にいうと「経血コントロール」で、そのため簡易な生理用品でも大丈夫だったとか。そもそも経血の量そのものが少なかったという説もあります(諸説あります)。いかんせん生理に関する資料が少ないので確かなことはわかりませんが、現在のような生理用品がなくともなんとかなっていたことだけは確かです。