江戸時代の名人・達人13人(前編)
※江戸時代の名人・達人13人の後編もあわせてどうぞ幕末の将棋界に風雲児がいた。家柄に恵まれずとも天賦の才により“棋聖”と賞賛された彼の生き様とは?
1人目
酒好き、素行悪し、でも将棋はべらぼうに強い
棋聖・天野宗歩
(あまの そうほ<そうふ>)
江戸時代の将棋界には家元(芸道を継承する家系)があり、なかでも将棋三家(大橋家、大橋分家、伊藤家)が権威として君臨していました。
天野宗歩が生まれたのは、1816年。現在の東京都文京区で産声を上げました。5歳の時に将棋三家のひとつ大橋家に入門すると、すぐさま頭角を現し、わずか11歳で初段となるなどその天才ぶりをいかんなく発揮しました。
しかし、いくら才能と実力があろうとも、将棋三家の出身ではない宗歩には八段以上への昇段は認められず、宗歩は将棋三家とは離れ、おのれの将棋道を進むことになります。
宗歩の将棋の特徴は圧倒的スピードとキレ。現代の天才棋士・羽生善治もそのスピード感に脱帽し“史上最強の棋士”のひとりとして宗歩の名を挙げています。そんな宗歩の棋風を評して師・大橋宗桂はこう言っています。
「紅の赤きが如き」
その強さは評判となり、宗歩の門前には弟子入りを希望する者たちが列をなしたといわれ、実際、49人もの門下生を育てました。飛ぶ鳥を落とす勢いの宗歩を家元も無視できず、家元自身の推挙により、宗歩はある戦いに参戦することになります。
1852年。場所は江戸城。
伝説の「御城将棋」。
対戦相手は将棋三家の大橋分家を背負う天才・8代 大橋宗珉(おおはしそうみん)。
在野の雄・天野宗歩、この時30歳。最大の戦いに挑みます。
お互い絶対に負けられない対局は死闘となり、対局後、宗歩は血を吐き、宗珉は病に倒れ、夫の勝利を祈念した宗珉の妻は狂ったと伝えられているので、この勝負がいかに凄まじかったかがわかります。
この歴史に残る名勝負で、宗歩は敗戦しました。ただ負けはしたものの、宗歩の名はさらに高まり、定跡の解説書も大人気となったとか。
このように、べらぼうに将棋が強かった宗歩ですが、私生活はひどいもので、酒を浴びるように飲み、素行も悪く、ある時など禁制の賭け将棋で逮捕されそうになったこともあったとか。
幕末の将棋界で、主流からは外れながらも自由奔放に将棋道を極め、のちに“棋聖”といわれた天才棋士は44歳という若さでその生涯を終えました。病死といわれてますが本当の死因は今でも不明です。
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