庶民文化が花開いた文化・文政期。芸術を愛し、自らもプロ顔負けの書画を多く残した風流なお殿様がいた。
5人目
プロ顔負けの写実画を残した、虫を愛するお殿様
長島藩藩主・増山雪斎
(ましやま せっさい)
「雪斎」は号で本名は正賢(まさかた)。1776年に生まれ、23歳の時に先代藩主である父の死を受け長島藩5代藩主となりました。
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雪斎は人生の大半を江戸で過ごし、藩政においてはあまり目覚しい活躍はしませんでした。が、風流を愛する多趣味&多芸のお殿様で、当代きっての一流文化人として名を知られ、人脈も広く、各地の有名文化人を長島藩に招くなどして藩の文化面での発展に大きな功績を残しました。
増山雪斎は48歳で隠居すると江戸の巣鴨に暮らし、以降、悠々自適、大好きな制作活動に没頭します。
雪斎は多くの優れた書や画を生み出しましたが、なかでも白眉はたくさんの昆虫を季節ごとに写生した傑作昆虫写生画集『虫豸帖(ちゅうちじょう)』。春・夏・秋・冬の4帖構成で、1種類の虫を裏表、横などさまざまなアングルから精密かつ優美に描きました。まるで図鑑です。
虫たちに真摯なまなざしを注いだ雪斎は優しい人柄だったようで、こんなエピソードが残っています。『虫豸帖』を描くにあたって多くの虫の死骸が残りましたが、雪斎は「この虫たちは私の友。いつかきちんと埋葬してやりたい」と小箱に収めて保管していたのだとか。
願いは果たせず雪斎は世を去りますが、それから2年後、雪斎の遺志を継いだ友人たちが虫たちを供養した「虫塚」を建立したのです。
雪斎もさぞやあの世で喜んだでしょう。ちなみに、この虫塚は東京上野にある寛永寺に現存し、都の指定旧跡となっています。