• 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2016年6月26日



時代が江戸から明治に移り変わる動乱期、不器用に生きた当代一の剣客がいました。

7人目
剣の道をまい進した“最後の剣客”

剣術家・榊原鍵吉
(さかきばら けんきち)

剣術家・榊原鍵吉の写真
榊原鍵吉の写真。写真でもわかる身体の厚み! 世が世なら……と想像してしまいます
1830年の秋、江戸は麻布の広尾にて、御家人の長男として鍵吉は生まれました。13歳の時、“幕末の剣聖”と呼ばれた直心影流の男谷精一郎の門下生となります。父の転居により道場へ通うのに遠い道のり(片道16kmとも)を歩かねばなりませんでしたが、鍵吉は休むことなく道場へ通い、めきめきと頭角を現していきました。

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ちなみに、猛稽古で知られた鍵吉ですが、長さ6尺(約180cm)、重さ3貫(約11kg)の振り棒を2,000回も振ったというから、これは常軌を逸している。結果、鍵吉の腕周りは太さ55cmもあったとか。細い女性のウエストくらいあります。

家が貧しい鍵吉は費用がかかる目録や免状を求めませんでしたが、誰よりも鍵吉の才能を見抜いていた師匠・男谷は、費用など自ら一切用意したうえで鍵吉に免許皆伝を授けます。榊原鍵吉、19歳の時のことでした。

男谷は鍵吉にかなり目をかけていて、その後、幕府が講武所(公設の武芸訓練機関)を設立すると鍵吉を剣術教授方に推薦しました。師の期待に鍵吉も応え師範役にまで昇進。

1860年には14代将軍徳川家茂の前で行われた御前試合にも出場します。試合ったのは“日本一の槍の名人”といわれた高橋泥舟(でいしゅう)

高橋泥舟の写真
幕末の三舟のひとり、高橋泥舟
剣術VS槍術

真っ向勝負の御前試合で榊原鍵吉は見事勝利を収めます

この勝負に感嘆した家茂は鍵吉を個人教授に任じ、鍵吉の剣術と実直な人柄を深く愛しました。また、鍵吉も家茂に誠心誠意仕えました。

順風満帆と思われた鍵吉ですが、恩師の男谷精一郎が死に、その2年後に主君・家茂が20歳で世を去ると、「わたしがお仕えするのは家茂さま、ただおひとり」とばかりに官職を辞し、30代なかばで表舞台から姿を消し、自分の道場で弟子を黙々と指導する日々を過ごします。

激動の幕末、戊辰・上野戦争の時に彰義隊から再三オファーがあったそうですが、それすら断り続けます。

明治になり、侍の時代は終わり、人々が「榊原鍵吉」という名を忘れた頃、久しぶりに鍵吉が表舞台に姿を現しました。

それは1886年(明治19年)、明治天皇行幸の席で行われた金属製の兜の試し切り。現代にも語り継がれる「天覧兜割り」です。

兜割りを命じられたのは、鍵吉ほか3人の剣術家。たまに天覧試合の審判を務めるなどはしていた鍵吉でしたが、ほとんどの人にとってもはや遠い伝説の人物。そんな鍵吉が久しぶりに姿を現したのですが、その姿を見て人々はどよめきます。

明治生まれが成人になるような時代にあって、鍵吉はいまだに髷(まげ)を解いていませんでした

時代遅れでは片付けられない異様ともいえる風貌。鍵吉はこの時もう60歳近い年齢でしたので、鍵吉の伝説を知る人々ですら「時代に取り残された頑迷な老人」と心中呆れたことでしょう。

兜割りですが、なにせ兜が金属製です。成功は困難であり、1人目と2人目がともに失敗するなか、鍵吉に順番が回ってきました。

手にするのは名刀「同田貫」。鍵吉は迷う事なく兜に刀を振り下ろすと、3寸5分まで斬り込むことに見事成功。人々の度肝を抜きました。

それから7年後、鍵吉は剣に生きた64年の生涯を閉じますが、“最後の剣客”は鮮烈な印象を残し、現代でもヒーローとして描かれています。

『暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図』(河鍋暁斎 画)
榊原健吉は妖怪の類すら恐れない傑物として描かれている。『暁斎楽画 第二号 榊原健吉山中遊行之図』(河鍋暁斎 画)

榊原鍵吉が主人公の漫画『剣は道なり』(梶原一騎 原作、荘司としお 漫画)
榊原鍵吉が主人公の漫画『剣は道なり』(梶原一騎 原作、荘司としお 漫画)

江戸時代に活躍した名人や達人のストイックな生き様は凄みを感じさせます。

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