「なせばなる」でお馴染みの上杉鷹山の偉業を紹介

なせばなる! 復興に捧げた名君・上杉鷹山の生涯は波乱万丈だった

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有名な「なせば成る」という格言。この生みの親こそ、史上屈指の名君といわれる上杉鷹山。今回は波乱と愛に満ちた鷹山公の改革の生涯をご紹介します。


名門・上杉家の養子藩主に崩壊寸前の米沢藩が救えるのか!?


上杉鷹山が活躍したのは江戸時代中期、将軍でいえば十代将軍・徳川家治(いえはる)や十一代将軍・家斉(いえなり)の時代です。

ちなみに「上杉鷹山」の名で知られていますが、「鷹山」は隠居後につけた号で名は「治憲(はるのり)」といいます。「鷹山」の読み方は「ようざん」です。「たかやま」ではありません。

鷹山は現代でも米沢市民の熱い尊敬を集めているので「鷹山」なんて呼び捨てにすると米沢市民からクレームが殺到しそうですが、基本的に「鷹山」で進めたいと思いますのであしからず。

さて、鷹山が藩主を務めた米沢藩は、現在の米沢市を中心にした山形県東南部にあたります。

鷹山はその米沢藩の九代藩主なのですが、じつは米沢の出身ではなく遠く離れた日向国高鍋藩(現在の宮崎県の一部)に実家があります。

ではなぜ鷹山が米沢藩主になったのか?

1751年(宝暦元年)、鷹山は高鍋藩主・秋月種美(たねみつ)の次男として江戸で生まれました。一方、米沢の八代藩主・上杉重定には男子がおらず、後継者となる優秀な男子を探していました。

そして白羽の矢が立ったのが親戚筋にあたる秋月家の次男坊・松三郎、のちの鷹山だったのです。鷹山公、幼い頃から利発だったようです。

こうして鷹山は10歳のときに米沢藩の上杉家に養子入りしました。


上杉家(厳密には長尾上杉家)といえば“軍神”として知られる超有名戦国武将上杉謙信を初代とする名門中の名門です。


幕末の絵師月岡芳年の傑作シリーズ『月百姿』より「霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 謙信」。「七尾城の戦い」において本陣で中秋の名月を眺めながら謙信が漢詩を詠んだという逸話を描いたもの。超クール
さて、名家に養子入りしてから7年後、17歳となった鷹山は米沢藩九代藩主となりました。青年藩主の誕生です。鷹山の実家である高鍋藩秋月家は3万石という小大名。そこの次男坊が名門・上杉家に養子入りして当主になったのですからめちゃくちゃラッキー!…でもなかった。


当時の米沢藩は崩壊寸前でした。


理由は財政破綻。借金が異様に膨らんでいる。

名門・上杉家が藩主を務める米沢藩は豊臣秀吉政権下では120万石を誇る大大名でした。しかし、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成に味方したため30万石に大減封。4分の1。

さらに、三代藩主の不手際でゴタゴタの世継ぎ問題を起こし15万石にまで減らされてしまいました。さらに2分の1。

つまり最盛期と比べて8分の1。

この2度の大減封にもかかわらず、上杉家では最盛期そのままに5,000人とも6,000人ともいわれる大家臣団を解雇することなく雇用し続けました。収入8分の1になれども支出変わらず。

藩収入の90%以上が藩士の給料だったとか。

余談ですが米沢藩四代藩主は「忠臣蔵
」の敵役でおなじみ吉良上野介の長男・綱憲(つなのり)です。


「忠臣蔵」の第一の見せ場、松の廊下で斬りつけられる吉良さま(画像左)。吉良家も名家として有名(『忠雄義臣録』より 三代歌川豊国 画)
“名門・上杉家”を背負う誇りがそうさせるのか、藩の財政は苦しくなる一方なのに、歴代藩主たちは伝統と格式を重んじ節約することなく金を使い続けました。

しわ寄せは農民に重税として来ます。結果、農民たちは米沢から逃げ出し、農村も荒廃していったのです。

鷹山の先代の時代には米沢藩もかなり緊急事態に陥っていたのですが、当時の八代藩主・重定がまた厄介な浪費家で、藩財政を立て直すどころか藩の赤字に大いに拍車をかける。

そして最終的にはこんなことまで言いだしたのです。

「米沢藩、いっそのこと幕府に返上しちゃおうかなぁ…」

これはヒドい。あまりに身勝手。

結局、重定は隠居。最悪の状況のまま、米沢藩は17歳藩主・鷹山の手に委ねられることになりました。

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