江戸時代の七夕について。由来や飾り、食べ物を紹介

七夕はそもそも秋のイベント!? 江戸時代の七夕について由来や食べ物、飾りをまとめてみた

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現在も定番の七夕イベントは江戸時代にもありました。現代にもつながるところもありますが、今ではあまりやらなくなったこともあります。江戸時代の七夕についてまとめました。


笹に願い事を書いた短冊を飾るのは現代と同じ。大きな笹竹を一生懸命に支える子どもがかわいらしい(『子供遊五節供』「七月」歌川国芳 画)

江戸時代、秋のイベントだった七夕祭


現代、7月7日といえば梅雨の真っ最中。東京の天気データでは、過去10年で晴れた七夕はたった1回。これは織姫と彦星ぜんぜん会えない…。

ですが、江戸時代にはもっと高確率で2人は星空の逢瀬を楽しむことができました。というのも、江戸時代の7月7日(旧暦)は現代の暦(新暦)では8月9日にあたるから(2016年の場合)。つまり明治時代になり改暦が行われたことで、織姫と彦星が逢える確率はグッと減ったわけです。

ちなみに、旧暦における四季の分け方は、1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬、ということで旧暦7月7日は季節としては秋

なので、現代人にとって七夕といえば「夏のお祭」というイメージですが、江戸っ子にとって七夕は「秋のお祭」でした。これは意外!


恋人同士でしょうか、男女が仲良く笹の葉に短冊を飾り中(鈴木春信 画)

ルーツは中国、だけど独自に進化した日本の七夕


まずは意外と知らない七夕の起源について。七夕といえば、織姫と彦星のロマンティックな伝説はよく知られています。ストーリーを軽くおさらいすると――


傑作『月百姿』より「銀河月」月岡芳年 画)

織姫と彦星の伝説 あらすじ

むかしむかし、機織りの名人である織姫と働き者の彦星という牛飼いが天の川を挟んで住んでいました。やがて2人は結婚しラブラブ新婚生活を送っていましたが、イチャイチャしてばかりですっかり怠け者に…。

これに怒ったのが織姫の父である天帝。「そんなに怠けてばっかりなら、もう別居!」と、天帝は天の川を挟んで2人を離れ離れにしました。強制別居措置に織姫と彦星は涙に暮れます。

さすがに不憫になった天帝は「マジメに働くなら、1年に1回だけ会わせてあげてもいいんだからね」ということで、七夕の夜だけ逢瀬を楽しむことを許したのでした。チャンチャン。

織姫と彦星は恋人同士ではなく夫婦なんですね。

さて、子どもの頃から親しんだこの織姫と彦星の伝説、もとは中国から渡来したものでした。ちなみに、中国では織姫を織女(しゅくじょ)星、彦星を牽牛(けんぎゅう)星と呼び、織姫は琴座のベガ、彦星はわし座のアルタイルにあたります。

で、大昔の中国では、この織女・牽牛伝説をもとに7月7日に女性たちが裁縫や芸事の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)という行事が行われるようになったとか。機織り名人である織姫にあやかろうというわけです。

さて、奈良時代、遣唐使によって中国から織女・牽牛伝説と「乞巧奠」が日本にやってきました。これが日本にもともとあったお盆を迎える前の禊(みそぎ)の行事「機織津女(たなばたつめ)信仰」(詳細は割愛)と合体して、現代につながる七夕祭へとなっていきました。「七夕」と書いて「たなばた」と読むのはここに由来するという説もあります(諸説ありますが)。もともとは「しちせき」と読んでいたそうな。

日本でも乞巧奠が七夕の宮中行事として行われ、7月6日の夜に祭壇を設置して桃やナス、アワビ、金銀の針や五色の糸、琴などをお供えし、裁縫や芸事の上達を願いました。貴族たちは星を眺めながら、香を焚き、楽を奏で、詩歌を詠んで織姫と彦星の再会を祈ったそうです。ロマンティックですね~。


京都にある風俗博物館で再現された『源氏物語』の七夕のようす。画像引用元:晴れのち平安
また、七夕の夜に詩歌を書くのは紙ではなく、古くから神聖な木とされた梶(かじ)という木の葉でした。


画像引用元:西應寺
墨をする水には「天の川のしずく」と考えられていたサトイモの葉にたまった夜露を使ったというからますますロマンティックです。詩歌のほかに願い事を梶の葉に書き、星空に供えました。

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