江戸時代は、お家にお風呂がなかった
江戸には水道が引かれていました(これ、江戸っ子の自慢)。ただ、水は非常に貴重であり燃料の薪も高価。そのため内風呂を持っている家はほとんどありません。
武士だろうが大商店の主人だろうが貧乏長屋の家族だろうが、みんな公衆浴場=銭湯に通いました。銭湯は、江戸では「湯屋」と呼ばれていて「ゆや」「ゆうや」と読みます。ちなみに京や大坂など上方では「風呂屋」と呼ばれていました。
江戸時代の銭湯の様子がこちら。
実は、江戸の人たちはお風呂が大好きだったんです。その頻度は、仕事前に朝風呂、仕事終わりに夕風呂と少なくとも2回は入ったそうで、1日に4~5回入るなんてことも!
というのも、関東特有の強風で砂ぼこりが舞い上がり、湿気の多い気候もあいまってすぐに全身ほこりまみれになってしまったから。
「月の数回しか入らないんじゃ…」「不衛生なんでしょ?どうせ」と思われる方も多いので、これは意外。1日に何度も湯屋へ行くため、江戸っ子の肌は乾燥していたそうですが、これを「垢抜けた」といって粋がったともいっていたそうです。
入浴料金は大人8文(約120円)、子ども6文(約90円)とそば1杯の値段の半分。いまの銭湯が大人460円なので割安感があります。さらにお風呂好きにはうれしいことに「羽書(はがき)」というフリーパスもあり、1ヶ月148文(約2200円)で何度でも入浴することができました。
営業時間についてははっきりしていませんが、朝6~8時に開店し、夜も8時頃まで営業していたそうです。
徳川幕府より歴史ある湯屋の第一号店
江戸時代後期の文化年間(1804~18)には江戸市中に600軒を数えたと記録に残るほど江戸っ子にとってなくてはならない存在となっていた湯屋。
では、まずその歴史について。神君・徳川家康が江戸に幕府を開いたのが1603年(慶長8)のことですが、銭湯である湯屋の第一号店が江戸に誕生したのはそれより12年も前!
伝承によりますと、家康が江戸に入り町づくりの真っ最中だった1591年(天正19)、銭瓶橋(現在の東京都千代田区大手町にあった橋)のたもとで、伊勢与一という男が蒸し風呂スタイルの風呂屋を開いたのが始まりだそうで、100円ほどの激安価格でさっぱりできる!ということで大繁盛したといいます。
お風呂屋さんにいるキレイなお姉さんたちの正体は?
黎明期のお風呂屋さんが描かれています。湯船はまだなく蒸気浴です。
蒸気浴か…ものたりないな…。
ちなみに湯船みたいに見えるのはかけ湯用のお湯です。きれいに着飾ったお姉さんがたくさんいますが、彼女たちはお客の背中を流す「湯女(ゆな)」という女性で、背中を流したり着替えの手伝いをしただけでなく時に性的サービスも行っていました。
圧倒的に女性が不足していた初期の江戸、男たちはこぞってお風呂屋さんへ行き大繁盛、吉原遊郭をもおびやかすほどの人気だったとか。
しかし、1703年(元禄16)に大地震が起こったことをきっかけに一気に下火となり、その後は湯女のいない入浴専門の「湯屋」となりました。入浴スタイルも蒸気浴から、蒸気浴と湯浴の中間スタイル「戸棚風呂」というものを経て、湯浴へと変化していきました。
せっかくなので、江戸のお風呂屋さんをバーチャル体験すると。
では、江戸っ子気分で湯屋へ行ってみましょう。
まず、湯屋ののれんをくぐると番台(ばんだい)があり、ここで入浴料を支払います。番台では手ぬぐいや歯磨き粉、体を洗うためのぬか袋なんかも販売・貸し出ししていました。
お正月だけの粋なお楽しみ
中央に見えるのが番台。これは正月の初湯の風景で、元日の初湯には特別サービスで福茶がふるまわれました。番台の右側に茶釜がありますね。
右側の三方の上に山盛りになっているのは、お客さんが入浴料とは別に置いた「おひねり」です。湯屋からもお年玉としてお客さんに貝柄杓をプレゼントしました(画像右端にある籠のなかにあるのが貝柄杓)。
番台で入浴料を払ったら、さあ、お風呂に入りましょう。
土間をあがればすぐに脱衣所です。脱いだ服は鍵付きの衣棚、今でいうコインロッカーにしまいます。空きがない場合は籠に入れておきます。脱いだ着物を盗む「板の間稼ぎ」と呼ばれる悪い人がいるので用心が必要。
流し場は板張りで、竹すのこを挟んで脱衣所と隣接しています。水はけをよくするためちょっと傾斜がつけられていたそうです。考えられていますね。入浴時のマナーが現在と違っていて、体を洗ってから湯船に浸かるのではなく、先に湯船に浸かって体を温めてからじっくり体を洗うのが一般的だったとか。
究極のバリアフリー!?
江戸時代後期の女湯のようす。にぎわっていますね。足をすべらせて転んじゃっている女性もいます。
この絵を見てると、なんだか不思議な感覚になります。われわれの知ってる銭湯とちょっと違う。
仕切りがないんですね。
画面左から番台→脱衣所→洗い場です。
つまり、銭湯の入り口から全見えです。
この”ぜんぶひと続き”という構造は現代人から見るとけっこう不思議な感じですね。
中央の女性がひものついた緑色の袋をくわえていますが、これは体を洗うぬか袋です。今でいうボディ石鹸といったところでしょうか。
女性の背中を流している男性もいます。彼は「三助」と呼ばれたサービス係りで、男女の区別なくぬか袋(石鹸)でお客さんの背中を洗い流したりマッサージをしました。
ただし、三助にサービスを頼むと別料金が必要となります。壁に目をやりますとなにやらポスターのようなものが。これは入浴マナーの張り紙や各種商店の広告、芝居のチラシなんです。
ケンカは江戸の華とはいうけれど
画面左を見てください。桶を手にケンカをする女性客が大乱闘。裸もなんのそのでつかみあい。女湯でのケンカは川柳にも詠まれていたほどなので、けっこう日常茶飯事だったのかも。
身分関係なしの湯屋ならでは。湯船に入る時のマナー
では、さらに奥へと入っていきましょう。
もういっかい上の絵を見てください。
絵の左上、奥の方になにか入り口のようなものがあり、そこにしゃがんで入っていく人、はたまたそこから出てくる人がいますね。
じつはここは「石榴口(ざくろぐち)」と呼ばれる湯船の入り口なのです。湯船の湯が冷めないように、また蒸気が逃げないようにするため鴨居を低くしてありました。
これも江戸時代におけるお風呂の特徴的な構造で、高価な薪を節約するためのアイデアです。この石榴口をくぐって一段ステップを上がると、湯船があります。鴨居が低く湯気もうもうの内部はとっても薄暗く、ほかのお客さんもはっきり見えないほどだったとか。
さらに前述したように江戸の湯屋は性別・身分関係なし。そのため、湯船に入る時には先客に声をかけるという独特のマナーがありました。
たとえば、
- 「ごめんなさい」
- 「冷えもんでござい(体が冷たくてごめんなさい)」
- 「枝がさわります(手足が触れたらごめんなさい)」
- 「田舎者でござい(不調法があったらごめんなさい)」
など。
武士だろうがヤクザ者だろうが大商店の主人だろうが近所のおかみさんだろうが深窓のご令嬢だろうが、みんなこのマナーを守っていたのです。
身分制度の厳しい封建社会の江戸時代だからこそ、さまざまな身分の人が楽しいお風呂タイムを過ごすための知恵としてこうしたマナーが生まれたのでしょう。
石榴口はカラフルな装飾もみどころ!
擬人化された猫たちが湯屋でお風呂を楽しんでいるのがなんとも楽しい絵ですね。一番上中央に見えるのが湯船の入り口である石榴口ですが、金魚のイラストが描いてあります。
このように石榴口には美しい彩色が施されていました。今の銭湯の壁画に通じるような気がしますね。
熱湯を好んだ江戸っ子。湯の温度はなんと……
江戸っ子は熱い湯が好みだったとよく聞きますが、江戸時代の湯の温度は推定47度。
これは熱いにもほどがある。
この度を越した熱湯にざぶりとつかり、熱さで全身を真っ赤にしながら、「おいおい、今日はちょっとぬるいんじゃないのかい。」ぐらいのことを言い放ち、ヤセ我慢がいよいよ限界をむかえたところでサッと出る。これが江戸っ子の粋だったとか。
なお、水が貴重な江戸時代。節水のため湯は繰り返し使われ、かなり汚れていても気がつかなかったとか……。
混浴だった湯屋。間違いは起きなかった?
ちょっと話しは変わりますが、江戸時代の銭湯は混浴が一般的でした。江戸だけでなく全国的にもです。ちなみに混浴は「入込湯(いりこみゆ)」と呼ばれていました。
1791年(寛政3)の「寛政の改革」をはじめ何度か「風紀が乱れる」という理由から混浴禁止令も出されましたが、男湯・女湯に分けるのは経済的に難しいなどの理由により定着せず、明治新政府の厳重な取り締まりにより絶滅するまで、禁止されては復活するを繰り返し、のらりくらりと混浴時代が続きました。
「風紀が乱れる」とはいえ、若い娘さんなどには母親やおばさんたちが鉄壁のガードでスケベな男性客から守ったそうで、威勢のよいおかみさんなどは触られようなら怒声を浴びせかけたとか。
日本の混浴に衝撃をうけた意外な人物
幕末、意外な人物が日本の混浴文化に度肝を抜かれました。その人とは、
ペリー提督です。
黒船来航で日本中を騒然とさせたペリーですが、ペリーはペリーで日本の混浴文化を目の当たりにして絶句します。
上の絵はペリー艦隊の公式日記『日本遠征記』の挿絵で、下田にあった公衆浴場を描いたものです。ペリーは「日本人は道徳心に優れているのに、混浴しているのを見ると道徳心を疑ってしまう」と日記に残しています。
美的意識の高さは今以上!?イケてる男はお風呂屋さんで○○をする
熱い湯にサッと浸かったあとはじっくり体のお手入れをします。野暮(やぼ)を嫌った江戸っ子は身なりにもとても気を遣いました。
清潔感をとても大切にしたので、ふんどしを尻ッ端折り(しりっぱしょり)にした時に陰毛がモサモサとはみ出てしまうことを嫌い、湯屋で熱心に除毛したそうです。
みんなで一心不乱に陰毛の手入れをするというのは、江戸時代のお風呂の日常風景。その証拠に、どの湯屋でも男性用の毛抜きと「毛切り石」というものが置いてあり誰でも自由に使うことができました。
「毛切り石」とはなんぞや、といいますと、その名の通り毛を切るための石なのですが、どうやるかというと余分な陰毛を2つの石で挟んで擦り切るのだそう。なかなかコツがいりそうですね。
江戸っ子のたしなみ
お客さんでごったがえす男湯のようす。桶に座って股間をのぞいている男性はアンダーヘアのお手入れ中? その横には軽石でかかとの角質除去をする男性も。
画面左奥の男性は爪を切っています。爪切りハサミは盗まれないように、ひもで板切れにつけられていました。
湯屋で髪を洗うのは禁止!?女性の洗髪頻度は月1回!
湯屋のようすを描いた浮世絵をよく見ると気がつくかもしれませんが、女性はみんな髪を結ったままで、洗髪している女性はひとりもいません。
じつは、湯屋では髪を洗うことはご法度だったのです。その理由は、水はとても貴重であり大量の水を必要とする洗髪はもってのほか!というわけです。
では、女性たちはどこでどれくらいの頻度で髪を洗っていたのでしょうか?
江戸時代の風俗百科事典『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、江戸の女性が髪を洗う頻度はなんと月に1~2度だったとか!夏場には回数が増えたそうですが、それにしても痒かったりしないのでしょうか?
なお、男性の場合はといいますと、「髪結い床(かみゆいどこ)」と呼ばれた床屋さんで数日に1回はお手入れをしてもらっていたそうです。月代(さかやき)がボサボサは野暮ですからね。
髪を洗うのも大仕事
金たらいに水を張り、肌脱ぎになって長い髪を洗う女性。ちなみにシャンプーとして使っていたのは、「ふのり」に「うどん粉」を混ぜたものだったようです。
長い髪は乾かすのもひと仕事だったため、天候も気にしないといけなかったというからたいへん。
男湯の二階は、男たちの憩いの場
女性客の場合は、体を洗って岡湯(入浴の最後に浴びる上がり湯)を浴びたら着替えて「あぁ、さっぱりした。さ、帰ろう」となるのですが、男性客の場合、ひとッ風呂浴びてからが長かった!
男湯から直通の階段を上がり二階に行くと、そこは男性専用の休憩所である座敷があったのです。もともとは前述した湯女(ゆな)が性的サービスを行うための座敷でした。
時代とともに、湯女がいなくなっても座敷だけが残り、やがて武士の刀を預かるスペースへ、さらに男性専用休憩所へと変化していきました。
この休憩所を利用するには入浴料とは別に10文(約150円)を支払います。男性客はここで碁を打ったり、将棋を指したり、のんべんだらりと世間話をしたり、本を読むなどして思い思いに楽しみました。
ちょっとした喫茶コーナーもあり、茶もふるまわれ、かりんとうや干菓子など甘味もあるのですから最高だったことでしょう。ちなみに、男湯の二階にある休憩所は江戸特有の文化だったそうです。
さぁ、これからがお楽しみ!
画面右に階段があり、武士が上っていますが、この先に休憩所があるのです。身分関係なく情報交換できるコミュニケーションの場でした。
時代とともに変わる銭湯
江戸時代から明治時代へと大きく時代が変わると、銭湯のようすも大きく変わりました。最大の変化は柘榴口(ざくろぐち)がなくなったこと。
画像左に見えるゴージャスな屋根のようなものが柘榴口。前述したように、江戸時代の銭湯には柘榴口があり、これをくぐって奥にある浴槽に浸かりました。
しかし、柘榴口に遮られた浴槽内は昼なお薄暗く、衛生的にも公序良俗的にも問題視されることがままあったのですが、明治時代になるとこの柘榴口を取っ払った銭湯が登場します。
さらに、洗い場の上に置かれていた浴槽は板間に沈められ、洗い場も広くなり、湯気を抜くための窓もつくられました。これにより銭湯はぐっと開放的で明るくなったのです。このお風呂は「改良風呂」と呼ばれたんだとか。
近代化を進めたい明治政府も1879年(明治12年)に柘榴口をなくすよう江戸時代タイプの銭湯を禁止する命令を出しており、次第に銭湯も近代化されていきました。
なお、ペリーもびっくりな混浴の風習については明治政府が厳しく禁止しやがて姿を消しました。
また、江戸時代には「湯屋」と呼ばれていた銭湯は、明治時代になると「風呂屋」と呼ぶ人が増えたんだそう。
大正時代になると、板張りだった洗い場や浴槽がタイル張りになっていきます。さらに昭和になると水道式のカランが設置され衛生面でも飛躍的に進化していくのです。
以上、今回は江戸時代のお風呂事情についてまとめてみました!
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