年季明けを待たずに自由になるもうひとつの道。遊女の最期とは
さて、このように身請される遊女はほんのひとにぎりの幸運な例。あとは年季が明けるまで辛抱を重ねて働くしかありませんでした。が、もうひとつ自由になる道がありました。
それは「死ぬこと」。
当時、現代のようなコンドームもなかったので、遊女は不特定多数の男性客と避妊具なしで性行為を行っていました(避妊法としては柔らかい和紙を局部に入れるというのも。江戸時代の避妊については別記事あります)。
そのため、性病、特に梅毒(ばいどく)にかかる遊女が非常に多かったといわれています。
しかも有効な治療法もない時代のこと、漢方薬などで痛みをやわらげることはできても完治させることはできませんでした。そのため、梅毒により死亡する遊女が多くいたそうです。梅毒以外にもほかの病気にかかったり妊娠中絶により体を壊し、死亡する遊女もいました。
また、惚れた男性と心中する遊女もいました。
たとえば、こちら近松門左衛門による大ヒット人形浄瑠璃『曽根崎心中』。「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば……」のセリフで有名。
この『曽根崎心中』は、吉原の遊女ではありませんが、1703年(元禄16)に大坂で実際に起きた遊女「はつ」と醤油屋の手代との心中事件を題材にした作品です。
「この世で結ばれぬなら来世で――」と誓い合って心中を図っても成功するとは限りません。失敗すると悲惨でした。妓楼にとって遊女の心中や逃亡は大罪であり、ほかの遊女への示しもつかなくなるため、心中や逃亡を図った遊女には厳しい罰が科せられたといいます。
こうして病気や心中などで命を落とした遊女たちは、三ノ輪(現在の東京都荒川区南千住)にある浄閑寺(じょうかんじ)、別名「投げ込み寺」で葬られました。
浄閑寺には花又花酔の次のような川柳を刻んだ碑もあります。
「生きては苦界(くがい) 死しては浄閑寺」
苦界とは苦しみの多い世界、つまり遊女の苦しい境遇をさしたものです。悲しい句です。
年季が明けた遊女はどうなったのか?
10年の年季が明け、晴れて自由の身になるわけですが、ここからもまた苦難の道が待っていました。
前述したように、遊女には着物をはじめ自腹で買わなければならないものや支払いが結構あり、年季が明けても借金はたくさんある、という場合も少なくありませんでした。ではその場合はどうなるのか?
「10年がんばってくれたし、残りはチャラにするよ」
と、いうことにはなりません。
借金からは逃れられないのです。では、どうやって返すか。それには次のようなパターンがありました。
- そのまま妓楼に残って、「番頭新造」として花魁の雑用をする(原則お客はとらない)。もしくは「遣手(やりて)」として遊女の監視・管理係となる
- 吉原のすぐ外にある「河岸見世(かしみせ)」と呼ばれる安い妓楼へ移籍する
- 岡場所や宿場の女郎屋などで色を売る
- 「夜鷹」と呼ばれる筵(むしろ)1枚を抱え辻に立つ最下級の街娼となる
などなど
この絵に描かれているのが「夜鷹」です。夜鷹は私娼のなかでも最下層といわれる女性たちで、40歳すぎの大年増も多く、シワを厚く塗った白粉(おしろい)で隠したりしたそう。
また、病気の者も多かったといいます。値段も非常に安く一説に24文(およそ480円)だったとか……。
遊女が無事に借金を返済できた場合でも幸せになれるとは限りませんでした。
かつて泣く泣く離れた実家に帰ったとしても、歓迎されるどころか「もう居場所はない」と迷惑顔をされ、結婚してただの“おかみさん”として暮らしたいと願っても、三味線や琴は上手でもロクに家事もできず、中絶の繰り返しなどにより子どももできにくい元遊女と結婚してくれる相手がいない……という現実があったのです。
「妾にするにはいいけど妻にはちょっと」という感じなわけです。なので、恋愛の末に結婚して普通の“おかみさん”になれるのはごくわずか、結婚するにしても吉原関係者の妻になることが多かったそう。
いずれにせよ、遊女たちの多くは年季が明けても吉原の呪縛から逃れられず、“ただの女性”に戻ることは容易ではなかったのです。
これは吉原の遊女たちの写真(明治時代中頃撮影)。
明治、大正と吉原は江戸時代の名残を残しながら存続しましたが、戦後の1956年(昭和31)に売春防止法が施行され、吉原は終焉、遊女たちもいなくなったのです。