参勤交代の準備は半年前からスタート
参勤交代をスムーズに成功させるには入念な準備が必要でした。
江戸へ参勤する時期は、大名によって4月、6月、8月などと決められているのですが、勝手に出発するのはNG。事前に幕府へ「いつ頃こちらを出発します」という届け出を出し、出発許可をもらわなければいけませんでした。
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さらに、道中でも随時「いつ頃江戸に到着します」と、幕府の老中に連絡を入れたんだとか。今ならメール送信ポチーでOKですが、当時はいちいち使者を飛ばさないといけないわけですからたいへん。
また、当時の「国」というのは今の「県」とは似て非なるもの。同じ日本にあるとはいえ、自国を超えて他国に入ればそこは別の国。なので、国元から江戸へ行くまでに通過する他の藩や国に対しても、事前・事後のお礼やあいさつが必須でした。
通過される方も失礼のないよういろいろと気を遣いました。
また、近隣の大名が同じ時期に参勤交代することもあるわけで、宿泊施設がかち合ったり、なるべく道中で出会わないように綿密な旅程スケジュールを組みました。
プライドの高い大名同士のこと、道中でほかの大名にはなるべく会いたくありませんでした。なぜなら相手が格上の場合、駕籠から降りて頭を下げなくてはならなかったので。
特に要注意は別格・徳川御三家。
気を遣うことハンパなかったので、なんとか鉢合わせしないよう偵察まで出したんだとか。万一、御三家の大名行列に鉢合わせしそうな場合はわざわざ道を替えることもあったそう。
これは加賀藩が使っていた参勤交代のスケジュール表。一見するとなんだかよくわかりませんが、国元と江戸まで、宿泊する可能性があるすべての宿場までの距離が書かれており、なにかトラブルが起きても期日までに江戸へ到着できるよう考えられていたことが伺えます。
お金と時間がかかる、気を遣うし体力も使う……。大名たちにとって非常にやっかいにも思える参勤交代ですが、「今年はパスしよっかな♪」なんてことはできませんでした。
ただ、やむを得ない理由で参勤交代が免除される場合もありました。たとえば――
- 藩主が重病
- 国元の天災や飢饉
- 大名の居城の火災
もちろん幕府へちゃんと届けを出し、「これならしょうがないねえ」と幕府が認めてくれないと免除にはなりませんでした。もし、届けも出さず参勤交代をサボろうもんなら、最悪の場合は領地を没収されることもあったとか。
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参勤交代がもたらした効果がスゴイ!
さて、幕府が大名たちとの主従関係を明確にするために制度化した参勤交代。
1853年(嘉永6年)、浦賀沖にペリー率いる黒船がやってきて動乱の時代に突入すると、幕府は参勤交代の条件を緩和。これは1年おきに参勤交代している場合じゃなくなってきたため。さらに、「人質」として江戸にいた諸大名の妻子も国元へ帰ることが許されました。
この結果、ただでさえ低下していた幕府の権威はさらに下がり、倒幕の流れに拍車をかける一因になってしまいました。
そして、1867年(慶応3年)、最後の将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)すると、230年以上続いた参勤交代も終わりを迎えました。
参勤交代の影響は経済・文化にも大きな影響を与えました。
まず、経済面。
100万都市・江戸の人口の半分は武士といわれますが、その多くが参勤交代でやってきた地方の武士。その武士たちをあてこんで、屋敷をつくる大工や日用品をつくる職人、商人や料理人などさまざまな職業の人たちがビジネスチャンスを求め江戸に集まりました。
結果、江戸の町は活性化され経済と文化の中心として繁栄したのです。
また、大名行列が通過する街道沿いの宿場も参勤交代のたびに莫大なお金が落ちることで潤い、発展していきました。
次に交通面。
スムーズに参勤交代のスケジュールをこなすため、諸大名は橋がなければ橋を架け、道が悪ければ道を整備しました。その結果、街道は整備され交通網も充実しました。
最後に文化面。
各地から江戸へ、江戸から各地へ人が大移動するなかで、文化や流行、風俗なども各地から江戸へ、江戸から各地へと伝播しました。そして、相互に刺激し合い新たな文化や芸術が生まれたのです。
こうした参勤交代の裏側を知ると映画やドラマ、小説をさらに楽しめることうけあいです!