• 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2016年8月7日


1日に40km以上歩く!?強行軍だった大名行列がイメージと違いすぎる


参勤交代の大名行列というと、「下に~、下に~」のかけ声が響き、通行人は両サイドに土下座してひれ伏し、その前を行列が整然と列をなししずしずと進んでいく……というイメージがあるんじゃないでしょうか?

これ、実際はちょっと違ったようです。まず、「下に~、下に~」のかけ声ですが、別格である徳川御三家(紀州・尾張・水戸)しか使用しませんでした。

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ほかの大名たちの掛け声はといいますと、


「片寄れー、片寄れー」


あるいは


「よけろー、よけろー」


などと言ったそう。

んん?

なんだかイメージと違う。

次に通行人の土下座。

大名行列がやってくると通行人はみんな土下座しなければならないイメージですが、これも実際は違ったそう。徳川将軍家と徳川御三家、自国のお殿様以外は土下座しなくてもOKだったんだとか。

なので浮世絵などを見ても大名行列を見物する通行人が描かれていたりします。

参勤交代の大名行列が通過中(『支蘇路ノ駅 本庄宿 神流川渡場』渓斎英泉 画)
中山道の本庄宿近くにかかる橋を参勤交代の大名行列が通過中(『支蘇路ノ駅 本庄宿 神流川渡場』渓斎英泉 画)
橋を渡っているのが大名行列なんですが、通行人はわりと普通にしてます。

ただし、行列を横切ったり列を乱すような行為はご法度、その場で「斬捨御免(きりすてごめん)」も法的に認められていました。

また、あらゆる大名行列に対して構わず通ってもOKと認められている職業が2つだけありました。

それは飛脚産婆(さんば)。

どちらも一刻を争うので無双状態だったわけです。

次に、大名行列の「歩行スピード」。スローペースで進んでいるイメージですが、むしろ早足なくらいでした。

富士山を背景にした大名行列(喜多川歌麿 画)
雄大な富士山を横目に大名行列が進む。一見のどかだけどじつは大急ぎ?(喜多川歌麿 画)
江戸時代には飛行機も車もないので、江戸への交通手段は基本的に徒歩。ひたすら歩く。

西日本の諸大名は大坂まで海路を使い船で来るのが一般的だったとか。

熊本藩細川家による大船団(『御船賦之図』部分)
熊本藩細川家による大船団。一路、大坂へ向かう(『御船賦之図』部分)
大人数が歩いて江戸まで行くわけですから、あまりのんびり歩いていたら江戸に着くまで日にちがかかってしょうがありません。

日にちがかかればそれだけ旅費がかさむ。参勤交代はとにかくお金がかかる。

そのため、どの大名も心がけていたのは

「1日も早く江戸へ」

たとえば、徳川御三家のひとつ紀州徳川家。国元の和歌山から江戸まで約625kmを17泊18日で移動したそう。

これは平均約35kmを徒歩(半月以上毎日)ということ。なかには高齢の武士もいますが、誇張ではなく命がけだったでしょう。藩によっては1日に40km以上を歩いたとも。武士、辛すぎ。

熊本藩細川家による大船団(『御船賦之図』部分)
幕末に撮影された東海道。舗装もされていない道を草鞋で歩くのは現代人が想像する以上にたいへんそう(ベアト撮影)
「しずしず」というより「スタコラ」といった感じの強行軍だった大名行列ですが、ビシっと威儀を正し、整然と歩いた場所が2ヶ所だけありました。

それが、江戸に入る時と国元を出るときです。

やはり、最初と最後は通行人の注目度も高く、プライドの高い大名たちにとってお家の勢威を示す絶好のチャンスでもあったわけです。

要所では、毛鑓(けやり)というアイテムを利用したパフォーマンスも行われました。

熊本藩細川家による大船団(『御船賦之図』部分)
『温故東の花第四篇 旧諸侯参勤御入府之図』(楊州周延 画)
画像中央に2本の長い毛鑓を持った奴(やっこ)が見えます。奴はほかの武士と異なりちょっと派手なファッションに身を包み、行列を盛り上げるため毛鑓(けやり)を振ったり投げたりといったパフォーマンスをする重要な役割でした。

ちなみに、毛鑓にはさまざまなバリエーションがあり、大名の格を左右する重要アイテム。こんな毛鑓もありました。

津山藩松平家の毛鑓(けやり)
画像引用元:式部のひとりごと
これは津山藩松平家自慢の毛鑓で、黒クマと白クマの毛が使われているという個性的なものです。これは目立つこと間違いなし。

サイズもビッグ。1本約15kg。これを片手で持ったり、投げたり、受け取ったりするのだから、奴(やっこ)すごすぎる。

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