写楽、北斎、広重、国芳……数多くの個性的な絵師が登場した江戸時代。独特の“魔力”を持つ芝居絵を数多く残した不遇の町絵師がいた。
2人目
土佐が生んだ異端の町絵師
“絵金”こと弘瀬金蔵
(ひろせ きんぞう)
1812年、絵金は 土佐国(現・高知県)の高知城下に髪結いの子として生まれました。絵金という愛称は「絵師・金蔵」の略。
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幼い頃から絵が上手で、その評判はいつしか地元で知られるまでになり、16歳で江戸へ出て土佐藩御用絵師に入門しました(一説に幕府御用絵師に入門したとも)。いかに絵金の才能が抜きん出ていたかがうかがえます。
御用絵師の弟子になった絵金、通常10年といわれる修行期間をわずか3年で終えたというから尋常ではありません。意気揚々と故郷の高知に凱旋し、20歳の若さで土佐藩家老のお抱え絵師にとりたてられました。
しかし、ほどなく絵金のバラ色の未来を断ち切る事件が起きます。狩野探幽の雁作を描いたという疑惑をかけられたのです。この「偽絵事件」のウラには若くしてお抱え絵師となった町人あがりの絵金に対する反感と嫉妬があったといわれています。
真偽のほどは不明ながら、絵金はお抱え絵師の座を追われただけでなく、高知城下追放を言い渡され、赤岡(現・高知県香南市)に居を構え「町絵師・金蔵」を名乗るようになります。
土佐藩家老のお抱え絵師から、町絵師へ。絵金は酒蔵をアトリエにして、地元の人々に求められるがまま多くの絵を描きました。
絵馬や凧、提灯絵などさまざまな絵を描きましたが、特に目をひくのが芝居屏風絵。猥雑にして幽玄、血みどろながらユーモアもある……一度見たら忘れられない“魔力”を持つ極彩色の芝居屏風絵は当時から人気を集め、多くの家で大事に保管されました。
一部を紹介すると。
地元で愛され、多くの弟子を育てた絵金。晩年、中風により右手が使い物にならなくなっても左手で絵を描き続け、64年の波乱の生涯を終えました。
ちなみに、絵金が城下を追われた後に住んだ町・赤岡では、現代でも毎年7月に絵金祭りが開催されています。祭りでは、絵金が地元の人のために描いた屏風絵を各家の子孫たちが公開することで、在りし日の町絵師を偲んでいます。