年季を待たずに自由になれる方法――身請け
遊女の毎日はかなり過酷。
お客と性行為するのは午前2時頃で、朝6時頃にお客を送り出し、2度寝ののち10時頃に起きて、昼頃には昼の営業が始まり、その後はずっと宴席にはべったり、お客の相手をしました。
そのため多くの遊女は万年寝不足ぎみだったとか。ひと晩に相手をする客もひとりとは限らず、複数の男性と性行為することもあったといいますから、本当に肉体的にも精神的にもたいへんだったことでしょう。
正式な休みも正月と盆の年2日だけで、生理の時もまともに休ませてもらえなかったとか。
さらに、脱走防止のため吉原からの外出は禁止されており、まさに遊女たちは“カゴのなかの鳥”でした。
また、自身が売られた時の代金は自分の借金となっていただけでなく、自分の着物や髪飾り、化粧代なども自腹、さらに花魁の場合は、付き人である禿や振袖新造の着物代なども自腹で支払わなければならなかったので、借金はまったく減りませんでした。働いても働いても楽にならず……です。
とはいえ、正月には餅つきをするなど季節のイベントもありましたし、貧農の娘のままなら一生着ることのできない豪華な着物や髪飾りをつけることもできたうえ、茶道や和歌など諸芸を学ぶこともできました。
しかし、年季とされた10年という年月はとてつもなく長い。このつらい10年が過ぎるのを待つ前に吉原から自由になる方法がひとつだけありました。それは……
金持ちのお客さんにお金を払ってもらって妓楼から出してもらうこと
これを「身請(みうけ)」といいますが、莫大なお金が必要でした。
身請代 = その遊女の身代金 + 遊女のこれまでの借金 + これから稼ぐ予定だったお金 + 妓楼のスタッフや遊女の妹分らへのご祝儀 + 盛大な送別会の宴会料 + 雑費など
必要とされた身請金は下級クラスの遊女でも40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるほどでした。
余談ですが、江戸時代の文学界を代表する作家のなかで2度も遊女を身請し、妻に迎えた人物がいました。
名を山東京伝。
京伝は数々のヒット作を生み出した当時の大人気作家というだけでなく、浮世絵も手がけるわ、煙草入れや手ぬぐいのデザインも手がけるわ、といったマルチクリエーターでした。
身請された遊女は妾となることが多かったのですが、京伝は2度とも「妻」として迎えています(一度目の妻は死別)。そこに京伝の遊女への本気といいますか真摯といいますか、そういった気持ちが伺える気がします。