• 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2016年2月14日


今に続く江戸の蕎麦「のれん御三家」


屋台の蕎麦屋が人気を集めた一方、店舗の蕎麦屋も急速に数を増やし、前述したように江戸時代末期には江戸市中のあちこちに蕎麦屋がありました。

なかには今に続く老舗もあります。江戸そばの代表として名高い「藪(やぶ)」「更科(さらしな)」「砂場(すなば)」の「のれん御三家」です。「江戸三大蕎麦」とも呼ばれます

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まず、「藪」。元祖については諸説ありますが、幕末の頃、江戸は本郷根津の団子坂に店を構えていた「つたや(蔦屋)」だといわれています。

「藪」と呼ばれるようになった理由については、「つたや」の庭に竹薮が茂っていたからとも、藪下と呼ばれる場所に店があったからとも。

「藪」ののれんは、明治時代に「つたや」の支店だった「かんだやぶそば」に、大正時代には「並木藪蕎麦」に、昭和には「池之端藪蕎麦」へのれん分けされました。

今でも「藪そば」の看板を掲げる蕎麦屋はたくさん見かけますが、そのほとんどがじつは自称で「藪」ののれんとは無関係とか。

かんだやぶそば(東京都千代田区神田)の写真

東京都千代田区神田にある「かんだやぶそば」

「藪」を掲げる蕎麦屋の代表格として有名で、小説家・池波正太郎もごひいきにしていた名店。歴史ある店舗は東京都選定歴史的建造物の指定を受けていましたが、2013年2月の火災により店舗の一部は改築されました。このことはニュースでも大きく取り上げられ記憶に新しいのでは。(写真は旧店舗)

続いて「更科」。そのルーツは信州、今の長野県にあります。信州の織物の行商をしていた清右衛門という人は蕎麦打ちが得意で、江戸でお世話になっていた麻布の保科家の勧めにより、1789年(寛政元)に麻布永坂町で蕎麦屋を開きました。これが「更科」の元祖といわれます。

「更科」は蕎麦の産地・信州更級(さらしな)の「更」と保科家から賜った「科」を組み合わせた文字だとか。

開店の際、清右衛門は太兵衛に改名し、「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げました。更科蕎麦の特徴は、蕎麦殻を外した「更科粉」と呼ばれる蕎麦粉を使用した、真っ白な麺にあります。明治になるとのれん分けし、現在は「総本家更科堀井」「永坂更科 布屋太兵衛」「麻布永坂 更科本店」が有名。

永坂更科 布屋太兵衛(東京都港区麻布永坂)の明治頃の写真
東京都港区麻布永坂にある「永坂更科 布屋太兵衛」。こちらは明治の頃のお店の写真。立派な構えですね。画像引用元:永坂更科 布屋太兵衛
最後は御三家の最古参といわれる「砂場」。そのルーツは意外なことに“うどん文化圏”の大坂にありました。

「砂場」という名称は、大坂城築城の砂置き場だった場所に由来します。そこにあった蕎麦屋も同様に「すなば」と呼ばれていたそうで、今に続く「砂場」の元祖ともいわれる2軒の蕎麦屋が「砂場いづみや」と「津国屋」です。


江戸時代の砂場いづみや(『摂津名所図会』より)

1798年(寛政10)に刊行された大坂名所ガイド『摂津名所図会』に紹介された「砂場いづみや」の店内風景。蕎麦を打つ職人、蕎麦を運ぶ店員、それを食べるお客と大勢の人でにぎわっています。いかに大繁盛していたかよくわかりますね。

江戸に進出した時期や経緯については不明ですが、18世紀中頃には江戸にも「砂場」を名乗る蕎麦屋があったようです。江戸時代に営業していた「砂場」のうち、現在、「南千住砂場」と「巴町砂場」がその味を今に伝えています。

東京=蕎麦のイメージも源流をたどるとこんな歴史があったんですね。もちろん、蕎麦にすっかり押された感のあるうどんも江戸時代を通じて江戸の人々に食されました。

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