• 更新日:2017年5月5日
  • 公開日:2015年12月13日


なぜ「生類憐れみの令」はエスカレートしていったのか?


綱吉は関ヶ原・大阪の陣以後の戦後生まれの世代です。

泰平の世の申し子として、福祉政策に情熱を燃やす綱吉は、革新的ともいえる生類憐れみの令を出しました。

最初はどちらかというと道徳論的な発令だったのですが、みんながあまり守ってくれなかったため、綱吉は諦めず、24年間にもわたり発令し続けため、エスカレートしていきます。

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結果、「え?こんなものも??」と思ってしまうほど、ありとあらゆる生き物を対象にやたらと細かい規則が設けられていくことになります。

これはやりすぎ、生類憐れみの令
  • 道路をうろついている子犬を見つけたら母犬を見つけること
  • ケンカしている犬を見かけたら水をまくなどして引き分けさせること
  • 田畑を荒らすカラスやトンビは生け捕りにして伊豆七島へ運んでから放せ
  • 馬のたてがみを切ること禁止
  • 生きた魚や小鳥、鶏、亀、貝類を食料として売買すること禁止
  • 鰻(うなぎ)、ドジョウも売買禁止
  • 金魚を飼う者はその数を届け出よ

などなど。

これはさすがに守るのしんどい

しんどいが、法令に反した場合には島流しや死刑にされた人もいたというから、なんとも恐ろしい。エスカレートした「生類憐れみの令」により人々は動物愛護精神を持つようになったかというと、極端な締め付けはかえって反発を生んでしまったようです。

地方では意外と無視されていた!?


綱吉が情熱を傾けた「生類憐れみの令」ですが、厳しかったのは江戸や京など都市部だけで、地方では結構ナアナアだったそうです。

たとえば、長崎。長崎は西洋文化の影響が色濃い土地で、鶏や豚などの肉食がすでに習慣化していました。そのため「生類憐れみの令」を徹底させることは難しかったようです。

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また、徳川御三家のひとつ尾張。『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』という日記を書いた尾張藩士・朝日文左衛門という人なんかは、「生類憐れみの令」を無視して禁じられていた釣りを楽しんでいたとか。しかも、番人に見つかっても「こらこら」と注意されるくらいで罰せられることもなかったとか。地方ではかなり緩やかだったようです。

江戸時代 釣りをする子ども(『東都花暦十景』より「木場ノ魚釣」渓斎英泉)
(『東都花暦十景』より「木場ノ魚釣」渓斎英泉 画)
釣りをする子ども。江戸時代、釣りは庶民の間に娯楽として広まりました。「生類憐れみの令」で禁じられていた釣りですが、どうやらこっそり釣りをする人はいたようです。

ちなみに、徳川綱吉と同時代を生きた人に“水戸黄門”こと水戸藩の徳川光圀(みつくに)がいます。水戸黄門は、「生類憐れみの令」を大批判し、綱吉をいさめるために犬の毛皮を送った、という逸話も残されています(後世の創作という説もあり)。

綱吉の死後、「生類憐れみの令」は……


綱吉が死んだあと「生類憐れみの令」はどうなったかといいますと、なんと綱吉の死からわずか10日後には六代将軍となった徳川家宣(いえのぶ)が「法令に反しても罪に問わなくてよい」と指示、その後、捕まっていた人々も釈放され、ものすごい速さで廃止されていきました。

ちなみに、綱吉は「100年後もこのままに」と遺言していたのですが完全に無視されたようです。とはいえ、「捨て子の禁止」など一部の法令は引き続き施行されました。

エスカレートした「生類憐れみの令」が多くの人々を苦しめたのは確かですが、その根底には「弱者保護」の精神と「仁の心」が流れており、“悪法”とばかり言い切れないプラスの面もたくさんあったこともまた確かだといえるでしょう。

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