• 更新日:2022年4月3日
  • 公開日:2015年11月15日


湯屋で髪を洗うのは禁止!?女性の洗髪頻度は月1回!


湯屋のようすを描いた浮世絵をよく見ると気がつくかもしれませんが、女性はみんな髪を結ったままで、洗髪している女性はひとりもいません。

じつは、湯屋では髪を洗うことはご法度だったのです。その理由は、水はとても貴重であり大量の水を必要とする洗髪はもってのほか!というわけです。


では、女性たちはどこでどれくらいの頻度で髪を洗っていたのでしょうか?

江戸時代の風俗百科事典『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、江戸の女性が髪を洗う頻度はなんと月に1~2度だったとか!夏場には回数が増えたそうですが、それにしても痒かったりしないのでしょうか?

なお、男性の場合はといいますと、「髪結い床(かみゆいどこ)」と呼ばれた床屋さんで数日に1回はお手入れをしてもらっていたそうです。月代(さかやき)がボサボサは野暮ですからね。

髪を洗うのも大仕事

『江戸名所 百人美女』より「今川はし」(三代歌川豊国 画)の拡大画像
(『江戸名所 百人美女』より「今川はし」三代歌川豊国 画)
金たらいに水を張り、肌脱ぎになって長い髪を洗う女性。ちなみにシャンプーとして使っていたのは、「ふのり」に「うどん粉」を混ぜたものだったようです。

長い髪は乾かすのもひと仕事だったため、天候も気にしないといけなかったというからたいへん。

男湯の二階は、男たちの憩いの場


女性客の場合は、体を洗って岡湯(入浴の最後に浴びる上がり湯)を浴びたら着替えて「あぁ、さっぱりした。さ、帰ろう」となるのですが、男性客の場合、ひとッ風呂浴びてからが長かった!

男湯から直通の階段を上がり二階に行くと、そこは男性専用の休憩所である座敷があったのです。もともとは前述した湯女(ゆな)が性的サービスを行うための座敷でした。

時代とともに、湯女がいなくなっても座敷だけが残り、やがて武士の刀を預かるスペースへ、さらに男性専用休憩所へと変化していきました。

この休憩所を利用するには入浴料とは別に10文(約150円)を支払います。男性客はここで碁を打ったり、将棋を指したり、のんべんだらりと世間話をしたり、本を読むなどして思い思いに楽しみました。

ちょっとした喫茶コーナーもあり、茶もふるまわれ、かりんとうや干菓子など甘味もあるのですから最高だったことでしょう。ちなみに、男湯の二階にある休憩所は江戸特有の文化だったそうです。

さぁ、これからがお楽しみ!

式亭三馬の『浮世風呂』
(『浮世風呂』より/式亭三馬 画)
画面右に階段があり、武士が上っていますが、この先に休憩所があるのです。身分関係なく情報交換できるコミュニケーションの場でした。

時代とともに変わる銭湯

江戸時代から明治時代へと大きく時代が変わると、銭湯のようすも大きく変わりました。最大の変化は柘榴口(ざくろぐち)がなくなったこと。

『賢愚湊銭湯新話』より(山東京伝 著・歌川豊国 画)
『賢愚湊銭湯新話』より(山東京伝 著・歌川豊国 画)
画像左に見えるゴージャスな屋根のようなものが柘榴口。前述したように、江戸時代の銭湯には柘榴口があり、これをくぐって奥にある浴槽に浸かりました。

しかし、柘榴口に遮られた浴槽内は昼なお薄暗く、衛生的にも公序良俗的にも問題視されることがままあったのですが、明治時代になるとこの柘榴口を取っ払った銭湯が登場します。

さらに、洗い場の上に置かれていた浴槽は板間に沈められ、洗い場も広くなり、湯気を抜くための窓もつくられました。これにより銭湯はぐっと開放的で明るくなったのです。このお風呂は「改良風呂」と呼ばれたんだとか。

『猫乃入湯』(歌川芳藤 画)
柘榴口がなくなった明治時代の銭湯。ただし入っているのは人ではなく猫ちゃん。画像右端には「滝乃湯」という名前の打たせ湯を堪能する猫さんが(『猫乃入湯』歌川芳藤 画)
近代化を進めたい明治政府も1879年(明治12年)に柘榴口をなくすよう江戸時代タイプの銭湯を禁止する命令を出しており、次第に銭湯も近代化されていきました。
なお、ペリーもびっくりな混浴の風習については明治政府が厳しく禁止しやがて姿を消しました。

また、江戸時代には「湯屋」と呼ばれていた銭湯は、明治時代になると「風呂屋」と呼ぶ人が増えたんだそう。

大正時代になると、板張りだった洗い場や浴槽がタイル張りになっていきます。さらに昭和になると水道式のカランが設置され衛生面でも飛躍的に進化していくのです。

以上、今回は江戸時代のお風呂事情についてまとめてみました!

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